わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】戒名を自分でつけてみませんか

仏教界では、人が人生を終えたとき、戒名、あるいは法名法号、とかを授けます。
もちろん、亡くなられた方には関係の無い事でしょう。
本人にとっては、関与できないまま、
勝手に付与されるわけですから。

でも、見送る遺族にとっては、絶対はずせない仏事ですよね。
さて、戒名の本来は、仏に帰依した証しとして、付与するものだと、だれでも知っているわけです。
戒名の文字には、意味があるそうで、院号、連合、位号の順に書かれるものだそうです。
宗派によって、そうでない場合も、別の付け方をする場合もあるようです。
生前の社会的地位や、貢献度によって、あるいは、檀家としての沿革的な要素も盛り込まれるようです。
短いものもあれば、やたら長いのもあって、考えさせられます。

わたしは、自分が死んでも、戒名は付けて欲しくないと思うのですが、みなさんはどうでしょう。

火葬場で、祭壇に遺影を飾り、位牌が置かれます。
参列者は、そこに書かれた戒名をみて、立派な名前だとか、それほどでもないなとか、思い思いに判断します。

そこに書かれているのは、なんとなく、差別ではないだろうかと思いませんか?
人によって、位に上下があるのです。
例えばお布施の額によって、ちがうのかな?とも思ったりします。

生きていようが、亡くなろうが、人に上下などありません。
どうであろうが、優劣などありません。
それが、亡くなった後にまで、そのように格付けされるのです。
嫌ではないですか?

もちろんしきたりです。風習です。そうであるなら、それで意味なんてないのですから、いいのですけど。

わたしとしては、火葬や、本葬に参列する度に、亡くなられた御霊を思うと、残念な気がするのです。

戒名は、本来は生きているうちに付けるものです。
亡くなったら仏になるのだから、とか、カトリックのように洗礼したからクリスチャンネームを付けるのではなく、
自らが、自らの本性を知った時に付けるものです。

名前というものは、生まれたら付けるものです。
死んだら付けるものではありません。
この身が生まれ来て、仮の名前を与えられ、人生を生きて、やがて本来の自分に気づく。
新しく、そこでほんとうの自分が生まれるのです。
ほんとうの自分が生まれたら、仮の名前とは別に、その証しとして、新しい名前で生きて行こうという事です。
新しく、神の国に生まれるのです。

どのような者でも、新しく生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない。
キリスト、イエスの言葉です。

ウパテッサがシャーリープトラー(舎利弗)に名前を改めたように、
コリータがマーハー・モンガラナー(大木蓮)に名前を改めたように、
戒名とは、改名なのです。
自我を明け渡し、過去の一切に別れを告げ、本来の自分、本性が目覚めた時、名前を改めます。
それは、過去との厳格なる決別の証しです。

そうであるなら、わたしはもはや、だれにも名前を付けられたくありません。
その時、名前を付けられる「わたし」さえいません。

あるいは、付けるなら、自分で付けます。

人は、生きていようが、死んで別の世界に行こうが、みんな平等で、上下なく、優劣なく、
自と他に分かれてさえいません。
どうであろうが、同じひとつの命の中にあって、その中で変容しているだけです。
名前に意味づけして、ラベルを貼りつけ、ありもしない断定をするなら、それは、仏陀の教えとは違うのです。
ただの、ものまねです。

でもしかし、後を生き続ける、ご遺族にしてみれば、やはり世間体もあるでしょう。
世間体はしがらみであり、執着であり、虚栄であって、有りもしない常識であり・・・と言っても、
それがわかるまでは、しょうがありません。
世間体も過度でなければ、世俗て仲良くやっていくためには、役にたっています。

周りがやる事については特に問題ないのであれば、寛容に許してあげればいいでしょう。
しかし、自らの事であるならば、そういう立場は持っているべきでです。

わたしは、この後、身体を脱ぎ捨てる時期がきたら、そのように、遺言を残すつもりでおります。
自分が気に入った、イケテル戒名を考えておきます。
ほんとうは、宗教的な葬式もいらないのですけど。
ほんとうは、野たれ死にが、わたしの理想なのですけど。
法的に迷惑をかける事になるので、断念します。

既に、わたしは自由です。
好き勝手に運ばれている事が、幸せです。

手放すと、こんなにも身軽なのです。

 

 

2012-05-19

 

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