わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】人を苦悩に陥れるものは

幼子には無くて、おとなには有るものはなんでしょう。

常識です。当たり前と言われる価値観です。道徳です。規律です。

幼子は、そのようなルールがないから、無心で、無邪気で、天心で、嬉々としています。
それだから、体験であらゆる事を学べます。
しかし、成長に伴い、言葉を覚えると、親は自分の価値観を刷り込もうとします。
親もそのようにして、価値観を刷り込まれて来たからです。

だれも、自分で体験して得た価値観ではありません。
それなのに、それを当たり前として、自分で知ったがごとく、人にも強要します。

その価値観で、相手を評価し、ジャッジし、断定します。
価値基準に合わないと、無視し、嫌悪し、阻害し、排他しようとします。
その価値観で、自分が評価され、ジャッジされ、断定されます。
価値基準に合わないと、無視され、嫌われ、罵倒され、受け入れられません。

人は、まったく、自分に都合の悪いものを否定し、都合のよいものを肯定する、
エゴな価値基準を、代々継承し、押し付け、刷り込んで来たのです。
苦悩というのは、その価値基準、価値判断、そこから現れてきます。

価値観が、人を裁きます。
価値観が、自分を追い込みます。
価値観が、相手を許しません。
価値観によって、自分が苦しみ、悲しみに暮れているにも関わらず、それに全く気づきません。

苦悩の元なら、手放せばいいのに。
それが自分を支えているがごとく、握ったまま離そうとしません。

本来、人は自由なのです。
自由に生きて、なおかつ、教えられなくても体験から知り、善悪の判断はできます。
助け合い、支え合う事に誰でも喜びを感じます。
愛し合うことに幸せを感じます。
本来人は、自由に生きて、助け合って生きていけるのです。

そうであるなら、ほんとうは国という囲いもいりません。
政府もいりません。
まったく税金など納める必要は、ほんとうは無いのです。

しかし、エゴが価値観をつくりだしました。
価値観が争いの元です。価値観が苦悩の元です。
法律が必要なのは、価値観で相手を判断し、受け入れられないものを排他しようとするから必要になります。
価値観とは、そういうエゴから生まれ、価値観に対抗するために、また価値観を持ち出します。
まったく道徳が価値観です。規律が価値観です。
本来必要のないものであって、価値観が価値判断するから、道徳という価値観で価値観を見張らなければならないのです。

価値観が、人は誰でも同等で平等で上下なく優劣もないという、極当たり前の事を見えなくし、誰をも悲しみと苦悩に陥らせます。

親と子は、人として同等であり優劣がないのに、親を敬え、従え、感謝しろ、養え、と価値観が言い張ります。
ひとりで大きくなったわけじゃないだろうと恩着せがましく言っても、子を養う責任と義務を負うべきなのは親なのです。
子にあるのは、ただ権利だけだという事を、親はどうして気づかないのでしょう。だから親子は対立するのです。
企業主は対価を払い、社員は労働力を提供し、同等であるのに、上下関係があるのだと言い張ります。
その価値観が、労使関係を悪化させます。
夫婦は、お互いを支え合い、苦楽を共にするべきなのに、主従関係があるがごとく言い張ります。
その価値観に違和感があるから言い争います。

あらゆる苦悩が、ありもしない価値観から生まれてくるのです。

価値観が、自分自身を苛(さいなみ)ます。

これはいけない事だ。これはやらなければならない。善だ、悪だ。優だ、劣だ。
そのような基準はないにも関わらず、マインドが価値観をもって自分も他も非難します。

やりたいなら、やればいい。
やりたくないなら、やらなければいい。
それが、自分の内側から出てくる衝動なら、それでいいのです。
なにが間違っているというのでしょうか?
ありのままの自分なら、なにも間違っていません。
ありのまを、歪曲して見る基準が、価値基準です。固定観念です。
ありのままを、ありのままに見るなら、そこにどんな判断も、断定もありません。

全ての苦悩は、マインドのレベルで思考する、価値基準、価値判断という、価値観にあるのです。

そうであるなら、今すぐ手放せばいいのです。
なんと見え方が違ってくる事でしょう。

価値観、常識、当たり前という固定観念ももっている限り、それに支配され、自我の牢獄の中で、不幸な自分でいなければなりません。
そこに絶対的に悟りは無いのです。

もし、本当の自分、真我に気づきたいのであれば、代々受け継がれてきた価値観をまず、手放さなければなりません。
それは悟りを遠ざける自我の鎧です。
それを捨て去れば、もう争いも、非難も、悲しみにくれる事もありません。
普通の事を普通に受け入れられます。
なんと自由な解放感を得られるでしょう。

人は気づけば、だれでも幸せなのです。
こうすれば幸せになれるという、様々な手法を提言する人がいますが、それは価値観で捉える幸せです。
ほんとうの幸せは、だれでも今、ありのままで幸せだという、この幸せです。
取りに行く、手に入れる、そのような幸せは、不幸も共に手に入れてしまうのです。
紙の表だけ手に入れる事はできません。裏も一緒に、そこにあるのです。
ほんとうの幸せには、理由も条件もありません。
ただただ、ほんとうに幸せなのです。
その幸せが、ここ、ハートから溢れてきます。
源泉から、溢れてくるのです。
ジャッジする価値観、断定する価値観を、捨てるだけでいいのです。
幼子に、それを学んでください。

 

 

2012-05-20

 

 

 

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