わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】外なるわたし、内なるわたし

我々は、「唯ひとつ」の中で、外なる世界を創りだしています。
外なる世界の中で、主体である「わたし」と、客体である「わたし以外」に分けて見ています。
外なる世界は、「わたし」と「わたし以外たち」との関わりの物語です。

「外の世界のわたし」は、いつでも「恐れ」によって、あらゆるものと戦っています。
財産、地位、家族、名声、賞賛、尊敬、幸せ、愛、快楽、そのような自分にとって心地よいもののために。

それを手に入れるために、あるいは、奪われないために戦っています。
手に入れられない恐れ、失ってしまう恐れ、それは困窮という状態に陥るかも知れないという妄想の故に現れます。

どこで、何をしていようが、恐れは付きまといます。

まったく有りもしない妄想であるのに、しかも、自身でさえそれが時折ふっと現れる心配事に過ぎず、今その状況にはないと知っていながら、気づかぬうちに恐れと肩を並べているのです。

家族にあっては離散の恐れ、職場にあっては解雇の恐れ、社会にあっては蔑みの恐れ、愛するひとにあっては嫌われる恐れ、自分にとっては孤独の恐れ、そして、失命の恐れ。

まったく恐れが「わたし」を戦いに駆り立て、恐れからの脱出のために「わたし」は戦い続けます。

保身、あるいは、自己保存と言われます。
自己をなんとしても確立しておかずにはいられないのです。
「わたし」とはそういうものです。

保身のために、悪行を為します。
あるいは、保身のために善行を為します。
保身のために、嘘をつきます。
あるいは、保身のために正直を演出します。

自分の為した行為を隠すため、罪を認めたくないため、奪われたくないため、認められたいため、愛されたいため、嫌われたくないため、褒められたいため、賞賛されたいため、あわれみを請うため、仲間を得たいため・・・。
まったく、ありとあらゆる自己保存のために、嘘をつきます。

ひょっとしたら、「外なる世界のわたし」は、毎日幾度となく嘘をついているかも知れないのです。
しかも、その事に、まったく気づかないでもいられます。

あるいは、「外なるわたし」は、「外なるわたし」にさえ、嘘をつきとおし、嘘をついている事を忘れている事さえできます。
犯罪者が自分は犯罪など犯していないと自らに念じ、完全に成り切る事で、非犯罪者として溶け込もうとするのです。
しかも、それは全く完璧に行われている事の方が多いのです。

しかしながら、「内なるわたし」は、まったくその事に気づいています。
気づききっているのです。

「外なるわたし」には、自己暗示によって嘘を通しきることはできるでしょう。
しかし、「内なるわたし」には、絶対的にうそを通しきることはできません。
どのように自分をごまかしても、真実のわたしは、それを見抜いているのです。

さあ、感じてください。
内なる自分が、うそに気づいている事を。
いつだって「外なるわたし」が嘘をつく時、「内なるわたし」にだけは、それがバレている事を。

嘘をついた事がある人は、絶対それを感覚できます。
それが、嘘を責め立てるからです。
その故に、外なるわたしは、呵責を感じるからです。
その呵責は、内なるわたしの呼ぶ声です。

内なるわたし、真実のわたしに気づくには、そういう嘘さえ役にたつのです。
ひと度その、嘘をつけない、なんでも見通している内なるわたし、真実のわたしに気づいたら、もう二度と嘘をつきずらくなります。
嘘をつこうとすると、それが「待った」をかけてしまいます。

なんと、嘘をつく行為さえ、真実のわたしに気づく手がかりになるのです。

観察してください。
過去の嘘でもいいのです。

「嘘をついて嘘ではないとする」外なるわたしと、

全く「それは嘘だと気づいている」内なるわたしと、

その両者を見比べてください。
そして、それは厳格に分けられなければなりません。

その「嘘のつけない内なるわたし」にシフトするのです。
もうどうあろうが、嘘をつけないわたしでいるしかなくなります。
この後はもう、嘘をつこうとすると、真実のわたしが現れるようになるでしょう。

これからはいつでも、嘘のつけない真実のわたしを観察しようとするなら、観察できます。
内側とは、そこです。
そうして、内側に常駐する事に慣れて行ってください。

明け渡すその日が来るまで。

 

2012-05-25

 

 

 

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