わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】【完全版】結局最後は明け渡しです

*今回、過去記事をチェックしてみて、それが不完全なものであることを発見した。最後の十数行が欠けていた。今回の記事は完全版。当時の読者のコメントも付け加えておいた。

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

真我が目覚めていくプロセスには、様々なアプローチがあると思います。
修行という力技もあれば、神への純粋な憧れから起こる場合もあり、またどうにもならない苦悩と直面し、その放擲によって目覚める場合もあるでしょう。
あるいは、ごく普通の日常を生活していて、いきなりそれが起こる人もいるかも知れません。

しかし、いずれの場合であっても、目覚めるそれは、同じものです。
源泉が内側に現れ、それが自我を溶かして行く至福、この喜ばしさ、それは同じものです。
溢れ出る、理由も条件もいらない神聖な愛に、歓喜するのは、同じことです。

それは、最終的には、どうしたってこの源泉に全てを預けてしまう結果になるのです。
どのようなアプローチであれ、それに目覚めるなら、最後には絶対自分の全てを明け渡してしまわなければいけません。
それ無くして、恩寵(おんちょう)は与えられないのです。

そうであるなら、今、明け渡すなら、誰だって目覚めは約束されるのです。
修行も、信仰もいらないのですよって言ってるのは、そういう意味なのです。

ただ、自分が在ることの不思議、世界がある事の不思議、起こる事が起こる事の不思議、それが現れ来る不思議に、何者かが現しているのだと、現しているその源泉があるのだと確信できる事が必要です。

それを不思議でもなんでもない、当たり前の事だと思っているなら、その明け渡すべき相手など無いわけですから、明け渡しようがありません。

まず、これらの現れという大事業を成している、大いなる存在が絶対有ってしかるべきだという立場に立つことが必要です。

全て、どのような小さな事から、ありとあらゆる全部まで、それによって具現されているという確信が必要です。

そのように確信するなら、被創造物である我々は、創造主である源泉に、元々その御心によって我々が有るのだから、自分の全てを預け、明け渡しきっても、全く大丈夫なのだと思えるはずです。

確かに自我は抵抗するでしょう。
自分を明け渡すなど、恐ろしいと思うかも知れません。
また、執着するものを手放してしまうなど、絶対嫌だと思うかも知れません。

それは、それでその恐怖を執着を、未だ味わいたい自我があるのでしょうから、味わっていればいいのです。
味わい尽くすまで、味わう事は無駄にはなりません。
なにも問題などありません。
そのようにして自我は完成して源泉へ溶け込みます。

しかし、この事を知ってください。
真実というのは、悟ってからはもちろん、悟る前であっても真逆です。

恐怖があって、恐怖は嫌だと思うなら、むしろ明け渡せばいいのです。
明け渡す事は、源泉に主導権を明け渡す事であるので、もう恐怖に怯える必要など無くなるように運んでくれます。
執着があって手放すのは嫌だと思うなら、むしろ明け渡せばいいのです。
明け渡すなら、それよりももっと素晴らしいものを与えられるからです。

完全に明け渡すなら、我々は完全な満足を得られるのです。
明け渡す事によって、源泉から与えられるのです。
源泉が、そのように運んでくれるからです。

わたしはこの「明け渡し」という事すら知らないでいました。
知らないでいたのに、究極の苦悩、究極の困窮によって、自分の一切を諦め、後の一切を源泉が運んで行くそれに、ただ任せようと思いました。
それ以外に打つ手がもう無かったのです。
そう思った以上、何が起ころうが文句を言わず、起こる事、起こって行く事を全て受け入れようと思いました。
この自分に関わる一切と、自分以外の存在の一切を現している大いなる根本存在が在るのだという立場にあったから、それが出来たのです。
それは逃げる事ではなく、諦めて為すがままに受け入れるという、開き直り向き合う立場に立ったから出来たのです。

それによって恩寵を頂き、必要なものは与えられ、今完全に満足していられます。
全く自由であって、しかもかつて自由と誤解していた我が儘ではなく、完全な充足のある自由なのです。
その事によって、このハートが開き、真実の愛に満たされ、自らも発し、今まで味わう事のなかった幸福感に酔いしれました。
これを「明け渡し」と聖者たちが言うのだというのは、後から知ったのです。

わたしは、「明け渡し」というものを知らないでいたのに、明け渡したのです。

そうであるなら、そのことを知ったあなた方に、出来ないはずはありません。
これは、喜びであり、愛の導きです。
全く安心して明け渡して、全く大丈夫なのです。

しかし、完全な明け渡しというのは、後から「あ、やっぱり今は止めておこう」などと後戻りはできません。
あるいは、一旦明け渡しておいて、後に自我の中に戻り、源泉を忘れてしまうのではいけません。

それは、源泉への裏切りです。

また、そう思うなら、最初から明け渡してはいなかったのです。
完全な明け渡しが必要であって、また、その意味を知っていなければなりません。

明け渡しとは、自分(マインドの意志・自我)でうやろうとせず、源泉(神)にやって頂く、お任せする、導いて頂く、また、その結果を完全に受け入れるという事です。

そうであるなら、あらゆる事から解放され、まったくの自由になれるのです。

源泉が全てを成し遂げてくれるのです。

我々に必要なものを、源泉が気付かないでいるという事は、絶対有り得ないのです。
それは、与えられます。

ただ、絶対的に源泉(神)を信頼し、愛し、感謝し、いつも忘れず思い慕っていなければなりません。
しかも、完全に明け渡すなら、そうなってしまうのです。

どのようなアプローチで目覚めに至ろうが、最後の最後は、結局明け渡しになるのです。

なんという素晴らしい真理でしょう。
多くの人がこれを知らずにいられる事のほうが、不思議です。
誰もが、これを知るべきです。
分け与えられるべきです。

あれの理由、これの訳、組み立ての不思議などは、その後、知らされます。
それは、恩寵(おんちょう)による智慧によって知らされます。
その知らされる現象、わかっていく次第を悟りと言います。

まず自己の変容である覚醒が起こり、その後わかってしまう悟りがあるのです。
それらには、その前に、あるいはその後も、その途中でも、溢れる真実の愛と、大いなる至福と、喜びと、解放と自由が感覚されます。

このハートの扉が開かれ、内側に神をしっかりと感覚できるのです。
それ無くして、目覚めとは呼べません。
内側に神をしっかりと感覚して、はじめて外側にも神の臨在を見て取れるのです。

勘違いであってはいけません。
思い違い、思い込みであってはいけません。
それが起これば、自我は騒ぐ事がありません。
神の側から自分を観て、罠にはまってないか、つぶさに検証する必要があるのです。

目覚めた者は、いたずらに主張しません。
自分から多くを語ったりしません。
聞かれるまでは、あるいはその必要があるまでは語る事をしません。
言葉少なく的確に語り、つつましくしているものです。

この胸に、神を頂いているからです。
そのようにして、いつも笑顔でいて、決して内なる神から遠ざかったりはしないでしょう。
目覚めた者は、いつもそれを楽しんでいるのです。
いつだって今現れ来るそれらを楽しんでいるのです。

世、世、世が、至福で満たされますように。
みこころが、成就されますように。

全ての命たちが幸せでありますように。

 

 

2012-06-17

 

 

 【読者S】 こんな私でも大丈夫?

花岡さん、みなさま おはようございます。 

メッセージを読んでいると、私でも目覚めが起こるかも、という気持ちになってくるから不思議です。 

「大いなる存在」があると確信はしているのですが、未だ「味わいたい自我」がしつこく出しゃばっているらしく苦悩の中にいます。 

花岡さんのメッセージを読むと静かな源泉に引き戻される感覚になります。「繋がっている」のですね、きっと。ひととき、温泉につからせていただきます。 
ありがとうございます。 

それにしても、温泉から上がったら自分の現実の中でどうしたらいいものやら・・・「明け渡し」できてないな~(苦笑)

 

 

【花岡】Re: こんな私でも大丈夫?

Sさん、こんにちは。 

ぜんぜん大丈夫なんですよ。 
どうしても苦悩を味わうことは必要です。 
苦悩が無いことには、真実を求める衝動さえ起こりません。 

まだまだ、旅路の途中です。 
あらゆる事を見越して起こること起こしているあの故郷へ誰もが帰るのです。 

ぜんぜん、みんな、大丈夫です。 

それに憧れて、それに恋焦がれてください。 
あちらの方から近づいてきてくれます。

 

 

【読者A】 Re: こんな私でも大丈夫?

ボクにも近づいて来てくれるのかな~?

 

 

【花岡】 Re: Re: こんな私でも大丈夫?

> ボクにも近づいて来てくれるのかな~? 

すぐそこに来てる。 
あなたが先に手を伸ばせば触れられる。 
たったそれだけでいいんです。 
もう、ぴったりと寄り添っているから。 

 

 

【読者K】 ありがとうございます

「明け渡し」に関して様々な覚醒者の本を読んで知っていましたが、 
本当の意味で「明け渡し」が分かったように思います。 
なぜか泣きそうになりました。 
ありがとうございます。 

これから過去の記事も読ませていただきます。

 

 

【読者A】創造者(源泉)の存在の確信

>ただ、自分が在ることの不思議、世界がある事の不思議、起こる事が起こる事の不思議、それが現れ来る不思議に、何者かが現しているのだと、現しているその源泉があるのだと確信できる事が必要です。 

>まず、これらの現れという大事業を成している、大いなる存在が絶対有ってしかるべきだという立場に立つことが必要です。 

>全て、どのような小さな事から、ありとあらゆる全部まで、それによって具現されているという確信が必要です。 

最初に読んだときに思ったのですが、花岡さんに質問し忘れちゃいました。 
その確信をどうやったら得られるのだろうと。 

目覚めた方が「在る」というのだから、たぶん在るのだろう、とは思うのですが、「確信」と言われると分かりません。 
自分自身で納得する術がないような気がします。 

「創造」となると、科学的にどうか。科学者は何と言っているか、そのあたりまで突っ込もうとすると、ものすごい労力が必要になってきそうで。 

みなさん、そういう確信ってありますか?

 

 

【読者A】「信仰」

>そうであるなら、今、明け渡すなら、誰だって目覚めは約束されるのです。 
>修行も、信仰もいらないのですよって言ってるのは、そういう意味なのです。 

・・・だけど、・・・ 

>明け渡しとは、自分(マインドの意志・自我)でうやろうとせず、源泉(神)にやって頂く、お任せする、導いて頂く、また、その結果を完全に受け入れるという事です。 

>ただ、絶対的に源泉(神)を信頼し、愛し、感謝し、いつも忘れず思い慕っていなければなりません。 

これってまさに「信仰」じゃないでしょうか? 
(先ほどの「確信」も。)

 

 

【読者A】多くを語らず?

>目覚めた者は、いたずらに主張しません。 
>自分から多くを語ったりしません。 

これもちょっと分からなかったんだけど・・・ 

花岡さんもたくさん書いておられるけど・・・ 

そう言えば、A氏もそうだよな・・・ 

考えてみれば、イエスも、お釈迦さまも、 
たくさんしゃべっていたような印象がありますが。

 

 

【読者A】語る必要

でも、その後に、こう続いてましたね。 

>聞かれるまでは、あるいはその必要があるまでは語る事をしません。 
>言葉少なく的確に語り、つつましくしているものです。 

語る必要があった、ということなんですかね。 
つまり、我々読者にとって必要な情報だから、ということなのでしょうか。

 

 

【読者T】Aさん、久しぶり!

Aさん、ご無沙汰です。 

きっと花岡さんの記事を何度も何度も読み返し、思考に気付いて行けば、いつか腑に落ちる時は来ると思います。 
花岡さんも何度も言ってましたが、言葉に捕われないで、感じてみるといいと思います。難しく考え過ぎても、思考にはまってしまいますからね。

 

 

*参考

shikoutoshi.hatenablog.jp

shikoutoshi.hatenablog.jp