わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】幻と真実、つまり自我と真我の関係

今日もまた、長々と理屈っぽいお話で、申し訳ございません。
読まれる方は、めんどくさがらずに、言っている事の意味を汲み取ってください。
そしてこれは、重要です。

もしも、あなたがエゴの立場を取ったままで「わたしは誰か?」などと問うのであれば、決して「真実の誰」を見ることは無いでしょう。

その状態であれば、わたしはこの自己であり、付随するこの身体であり、この感情を発する者であり、このアイデンティティを所有する者であり・・・と、いくつでも具体が出てきます。

それは、「わたし」を見ている事ではないのです。
「わたし」による「わたし」への評価と断定でしかないのです。

「わたしは誰か?」という、その問いは、その評価断定をしているその「わたし」を見つめる、全く「わたし」から離れて「わたし」を見ている者の自問でなければならないのです。

その自問は、言葉で問う事では無く、その離れて見る側のその見ている者が、それその者を、つまり自身を確信し信頼する事ができているか?という立場を確認する事なのです。

別の言い方なら、「わたし」を離れて観照する者として、全く疑わずそれであるか?という事です。

そしてその答えは、ただ「これだ」となるはずです。

「わたしは誰か?」「これだ!」

それには、たいして努力を必要としないでしょう。

その理解を働かせるだけで、充分なのです。

やる気で臨んでは、期待どおりには行きません。
瞑想とは、そうしたものです。
やる気でやっても、無駄です。

やる気こそ、エゴなのですから。

そのような事は「決心」してやらなくてもいいのです。
ただ、やればいいだけです。

しかしながら、この「ただやる」というのは、誤解されやすい。
それは、四の五の言わず、やる事をやれ、と言うのではありません。
全く自然に、構えず、抵抗感も無く、全く疑う事無く、静かに理解力を働かせるだけでいいのです。

背筋を伸ばし結跏趺坐で、みたいな作法や形式にこだわっていては、こだわりが邪魔して長い長い年月を要します。

リラックスして、それに成果を求める事無く、そこを楽しむのであれば、あなたは静かな場所で、「わたし」を観照でき、また、「見る者」と「見られる者(わたし)」の立場の違いを、当然のように理解するでしょう。

見られる者である「わたし」を観照する者、それである時、「真実と幻の関係性は、幻の中にのみ適用される」事を知るでしょう。

つまり、真実の中では、幻さえ真実なのです。
なぜなら、幻は真実による創造なのだと言う事です。

どのような事柄であれ、真実の中から現れるのです。

この事がわかるでしょうか?

あなたの、わかるちから、を信頼してください。
理解力を働かせてください。

幻は、真実が産み出すのです。
真実がなければ、幻さえ現れません。
幻の世界は、真実が投映しているから、幻の世界では、幻と真実の関係性が成り立つのです。

しかし、真実にあっては、真実世界と幻を創造しているという真実の、・・・つまり、どうしたって真実しかないのです。

現象世界とは、描かれている絵であり、真実世界とは、描き手と絵筆とキャンバスの事です。

つまりこれは、世界を、宇宙を創造しているのは、あなた自身ですと、そのように言っているのです。

あなたは真実でなくて、なんでしょうか?

そこまで実在と非実在の関係性を理解したなら、二元を超えたのです。

あとは、そこでそのまま、あなた自身をわかれば(悟れば)いいのです。

あなた自身を見つめるのです。
言葉を使用してはいけません。
あなた自身を信頼し、それを見つめ、そこからわかっていく不思議に、驚いてください。

そこは何も無い静寂でありながら、全ての要素が有り、ダイナミックな活動もあるのです。

あなたはそこに居て、時には喜びを、時には愛を、時には言いようの無い懐かしさを楽しむでしょう。

言葉を用いてはいけません。

ただ、感応するのです。

評価せず、断定せず、あるがまま、働きと応答するだけでいいのです。

そうしているだけで、充足を味わい楽しむでしょう。

そうして理解するのです。

そこでは、現象世界の何もかにもが非実在であり、宇宙も無ければ、わたしも無く、なんと・・・神さえ無いのです。

ただ、「在る」だけがあり、そこに全てが有るのだと、知られるでしょう。

再び非実在の世界、エゴの「わたし」に戻って来たなら、「わたし」の立場はその「在る」を、意識に焼き付けている事に気づくでしょう。
その時、はじめて、「在る」を神と呼ぶのです。

それぞれの宗教界で言う神とは、その「ひとつだけの在る」ではなく、その力、作用を有すると見なす者、つまり様々な神という意味で使われ、だから神々という呼び方をします。

そこまで細かく分ける必要もありません。
それらはどれも、「ひとつだけの在る」の属性であり、召使の立場です。

何もかもが、我々誰もが、その「在る」と共に無かった事などありません。
絵は、画家のものです。

彼が絶対者です。

エゴにある時は、我々は彼の召使でしかありません。

しかし、彼の立場としてあるときには、我々は、まさに彼そのものなのです。
その彼、神を知ったなら、エゴに戻り日常を生活していようとも、忘れてはいけません。
注意力の半分は、彼に捧げてるのがいいのです。
そうすれば、いつでも、彼、神に満たされている生き方ができるのです。

現象世界、世俗の楽しみは色あせ、楽しめないものとなるでしょうが、神と共にある喜び、神に会いに行ける事、その楽しみのほうが、どれほど大きいか知れません。

満たされて生きる喜び、ぜひとも味わってください。

 

2013-04-15

 

*過去記事にはコメントもなく、まったく同じなのでリンクは省略する。

(ブログ管理人より)