【時系列 花岡修平】「わたし」はスーパーヒーロー
「わたし」という主語は、あくまでも主張できる相手があっての成り立ちです。
例えば、この宇宙という世界に自分独りしか人間がいないという状況にあるならば、
「わたし」を主張する意味などありません。
それを聞いてくれる誰も居ないのですから。
しかしながら、「わたし」を主張しなくても、わたしの本質は在ります。
それは、「わたし」が有ろうが無かろうが、崩れる事はありません。
全ての人のDNAの起源は、アフリカに行き着きます。
アフリカの地、あの三角州、エデンにあって、アダムは誰に「わたし」を主張したのでしょう。
彼はその時、思考による主体を創る必要がなかったに違いありません。
全く自由であり、何にも縛られる事など無かったに違いありません。
そのへんにある木に実る果実(命)をただ頂き、満足も不満足も無く、ただ存在であったに違いありません。
しかし、思考という果実を食べた瞬間に、「わたし」という主体を創り、人(エヴァ)との間に分離を創ったのです。
その隔てのために、互いを隠し、神からも隠れなければならなくなったのではないでしょうか。
羞恥、恐れという思考の産物が、そうさせたのでしょう。
我々は長い輪廻の時を、今終えて、無垢なアダムに経ち帰る事ができるかも知れないのです。
それはつまり、恐れも、傷つく事も、憎む事もない、真実の自分に経ち帰る事です。
人の思考が創り出す価値観に縛られる事無く、全く自由な存在そのものに、この「在る」に帰る事ができるという事です。
現象はただ、現れているだけです。
その現象に分離した主体を置くから、思考が、あらぬ意味づけをして傷つき苦しむのです。
思考が創り出す主体でありながら、主体によって思考が湧き起るという思考の呪縛に陥るのです。
人差し指を前に突き出してみてください。
その指の先の空間、そこに隙間がありますか?
指先に続く空間、さらに続く木や建物や、空、雲、向こうの山並み、それらに隙間や隔たりがありますか?
それらは一続きです。
一連の現れの模様です。
それは、あなたの身体も例外ではありません。
あなたが見るもの全ては、あなたが見ているのだと言う事実をわかっているでしょうか?
そうであるならば、それはあなたの中に現れているのです。
世界はそのように、様々な色で描かれた絵であって、描き手が描く物語です。
ゴッホ、シャガール、ピカソ、皆描く絵に、独自の思いを、絵具にタッチに載せて描いたに違いありません。
そのように、あなたの真我が、あなたを含めた物語という絵を描き、活躍を描いているのです。
それはたぶん、特別な思い入れとして、あなたという主人公を描いているのでしょう。
こどもが一人遊びに興じて、スーパーヒーローキャラを自分として物語を創るように。
こどもにとっては、それは大切なヒーローです。
ほんとうのあなたは、その描き手です。
思考の主体である「わたし」は、そのスーパーヒーローのような立場でしかありません。
こどもが一人遊びを飽きると、スーパーヒーローキャラは活躍を止め、おもちゃ箱に放り込まれます。
しかし、楽しかった物語は、こどもの胸にしっかり仕舞い込まれるのです。
我々もそのように、描き手の胸の中に、その愛の中に帰らなければなりません。
思考が止み、あるいは思考はただ思考であると気づき、この静寂なる本質に寛ぐ事で、それがわかります。
あなたは「これ」です。
そして「これ」は「在る」です。
すぐでなくても、人によってはとても緩慢であっても、わかって行きます。
いきなり全部わかる事が優れている事ではありません。
しかも、そのような人は希です。
少しずつ、体験をする事で、わかって行きます。
だから、難しいとか、わたしには無理だとか、思ってもいいのですが、否定してはいけません。
わかった人には、わかるのです。
誰でも、みんな、少しずつでも、わかって行くという事を。
そのためにみんな、体験を生きているのだと、わかっているのです。
どのような人もみんな、素晴らしい人である事に、なんの違いもありません。
2013-05-13
*過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。