【時系列 花岡修平】執着(質問へのお答え)【初出記事】
*過去記事を調べてみたが、この記事はなかった。なんと見落としていたようだ!おそらく、記事「執着・わたしのもの」と同じものと錯覚してしまったのだろう。(ブログ管理人より)
--- 質問を頂きました ---
執着とは何なのでしょうか?
普段私は執着、執着と言っていますが、
具体的に何なのか、わからなくなりました。
なので、執着を手放すとはどういうことなのか、
どうすればいいのか、自分は執着しているのかどうか、
わからなくなってしまいました。
執着というのは、欲求ですか?
執着というのは、意識を向けているということですか?
意識を向けているそのものに、想念が加わっていることですか?
執着を手放すとは、それについて考えないということでしょうか?
執着を手放していくには、どうしたらいいのでしょうか?
執着は苦しみだと思います。
できることなら、すべて捨てたいのですが。
--- お答えします ---
欲求は人が生きて行く以上、どうしても現れます。
お腹がすけば食べたいし、疲れてくれば眠りたい。
好きな人とは話したいし、いっしょに居たいでしょう。
欲求は生きていく過程で、都度現れ、満足する事で消えていきます。
あるいは、手の届きそうもない欲求が起こる事もあるでしょう。
その場合でも、不可能を認識できれば、消えていくものです。
それは、善くも悪くもない、人に於いての当然の自然現象です。
執着は、たしかに欲求によって発動されるものかも知れません。
しかし、執着と欲求は、まったく違います。
執着とは、欲求の継続です。
欲求そのものではなく、終わる事の無い継続なのです。
それは、過剰な貪欲や、自己にまつわる積み上げられた価値観から引き起こされるものです。
多くの場合、それは所有欲であると言ってもいいでしょう。
足りているにも関わらず、更に所有したい。
お金とか、資産とかは、たいてい執着している場合が多いでしょう。
また、異性への執着を愛だと思い違いしている人のなんと多い事か。
それは、自分のものにしたい、所有したいという、愛とは似ても似つかない執着でしかありません。
失いたくない対象、あるいは、いつかは手に入れたい対象。
所有の欲の飽くなき願望を、人はいくつも抱えていて、そのために戦い生きる。
満足を許さない、その欲の継続を、執着と言うのではないでしょうか。
失いたくない、奪われたくない、例えば妻、夫、我が子、そしてこの身体、この命、これは普段、所有しているか否かとは、考える事がないものです。
しかし、実際には所有しているが故に、苦悩が伴います。
自分を基準にして妻、夫、あるいは我が子を、理想のあるべき状態に強いる。
ところが、そうはならないし、そうはならないから気になってしょうがない。
そうであるから、常に干渉してウザイと言われる。
財産は人並み以上にあっても、それ以上にもっと欲しい。
少しでも損をすると、地団太踏んで悔しがる。
子のある者は子の故に、富あるものは富の故に苦悩する、と仏陀が申されたとおりです。
所有によっての親子夫婦であるのか、愛によってのそれであるかを、確かに知る事がないからです。
身体に執着する者は、死後に於いても身体を探す。
お金に執着する者は、死後に於いてもその馴染みを捨てられない。
異性の気を惹くためにお化粧や着衣や持ち物に過度に拘り続ける者は、死後に於いてもそれを引きずる。
そのようにして、ついに輪廻は廻り続ける。
人が輪廻を繰り返すのは、執着を断ち切れないからではないでしょうか。
そしてそれは、思考の有りようによって、堅固に保持されているのでしょう。
つまり、
そのようなものが人にとっての幸せだと、信じて疑う事がないのです。
それはそれで、学びの途上です。
やがては、つまらないものと、ほんとうの宝との違いを知っていきます。
苦悩とは、執着による産物であると、やがては気付くのです。
さて、ある人が、悟りという尊い真理があるのだと聞かされ、そうなりたいと思ったとします。
その為に熱心に修行したとして、その姿をよく見てみれば、それは悟りに執着している姿ではないでしょうか。
悟りという境地が、執着を捨て去って得られるものだと聞かされれば、執着を捨て去る事に執着する。
全ては思考によって意味づけをし、まったくそれに振り回されている事に気付くことがないのです。
それはやはり、悟りを所有したいのです。
それを所有する事によって、また別の何かを得たいと思うのです。
至福かも知れません。
羨望かも知れません。
崇められる事かも知れません。
満ち足りた境地かも知れません。
解放感かも知れません。
とにかく、何かになりたいのです。
願望があり、それを達成したいというのは、
それは、
満足を許さない、執着でしかありません。
ですから、何度も言うのです。
悟りを捨てなさい。
何かになろうとしなくても、あるがまま受け入れ、あるがままで居れば、導かれます。
もしも悟った人が、自分は悟ったのか?と自問しても、それは答えがありません。
それであるなら、それであるかなど、どうでもいい事です。
海の水は海の中にあって、海の水である時に、海の水である事を知りようがないのです。
人に、あなたは悟ったのですか?と問われ、「悟りました」と答えられる悟った人などいないのです。
わたしは、たしかにかつては、悟りについてかなり憧れていました。
それはどのような境地なのだろうと、知りたい欲求がありました。
しかし、自分自身の無能さを見れば、そのような尊い者になどなるはずが無いのだと、とうに諦めていたのです。
悟れる人は、その天命を担って生まれてくるのだと言う認識でした。
わたしなどは、絶対そのような者であるはずがないと思って今日に至っております。
悟り、恩寵、覚醒、それは求めるなら起こり得ません。
それは突然現れます。
拒否しようがしまいが、それは与えられてしまいます。
ただ、執着、拘り、願望、貪欲、そのようなものが障壁です。
いさぎよく、きよらかであり、真っ直ぐで、真摯に、つましく生きるなら、
たとえ泥の中にあっても、泥に汚れる事の無いプンダリーカの花の如く、染まらないのであれば、
それは与えられてしまいます。
真我、神、ただひとつの真実、そのようなものを我々は見た事がありません。
それでも、信じることも、疑うこともせず、そのような拠るべき真実を受け入れられる態勢を持っていなければなりません。
もちろん真偽を見抜く見識も育てて置く必要はあります。
多くの真の聖者の言葉を見聞きしたくなるのは、そのせいでもあります。
さて、執着は、思考の作用でもあり、つまり思考が創る「わたし」という中芯の飽くなき欲の継続です。
それを解き放したい、それも「何かになりたい」という執着ではないでしょうか。
何にもならなくてもいい。
あるがままでいい。
ずっとこのままなら、このままで満足する。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
死がわたしの身体を、今奪っていくなら、受け入れよう。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
自分のものとして神から与えられたものでないなら、たとえ家の庭に落ちていたとしても所有しない。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
誰にも愛される事がなく孤独であっても、その孤独を楽しもう。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
人は名誉、羨望、財産、尊敬、そのような汚れを持って生きていても、わたしはその汚れを身にまとわない。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
怒りに対して怒りで応酬する事をしない。
そのような覚悟を持てますでしょうか。
どのように嫌悪されても、嫌悪で返す事をしない。
そのような覚悟を持てますでしょうか。
あらゆる命を、心の底から愛し、慈しみ、我が身と同じ基準に置く。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
いさぎよさと、きよらかさと、真っ直ぐにそれから外れない事と、常に真摯に気を付けている。
そのような覚悟を持てますでしょうか?
酒を呑まず、嘘をつかず、自分を偽らない。
そのような覚悟を持てますでしょうか。
持てないなら、明け渡せばいい。
あなたの努めは、ただそれです。
執着を離れる、捨てるというのは、そのような事ではないでしょうか。
どのように修行を重ねた人でも、最後に行く着くのは、明け渡しなのです。
恩寵は、そうして与えられます。
悟ったかなど、どうでもいい。
それに拘っているなら、執着なのです。
わたしには、このような事しか、言えません。
質問の答えになっていなかったら、ご容赦願います。
焦らなくてもいいじゃないですか。
まず、落ち着いて、一息入れて。
あるがままとは、なんであるかを見つめてみてください。
ほんとうは、あるがままのあなたが、余計なものを握って離さなかっただけなのです。
2013-05-16