わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】あの感動は何処へ・・・と言う方へ

神に憧れる者には、神はやがては応えてくれる。

そういうものだと、

わたしは思っているのです。

神に憧れるというのは、神に惹かれるという事なのかも知れません。

つまりそれは、ほんとうは神の方から呼ばれているに違いないのです。
人が神にアクセスするのではなく、神の方から熱心に情熱をもって呼びかけてくるのだと思うのです。

「荒野で呼ばわる者の声がする」

この言葉の持つ意味は大きい。

神の声は、もちろん空気を振動させて届く波形を有する物理現象の事を言うのではありません。
それは言葉としてやってくるのではありません。
それはほんとうは、常に、いつだって、人に向けて発信され続けている、神聖で愛に満ちた波動なのではないでしょうか。

あなたはそれに感応できるでしょうか。

人が持つ非物質的な構造の中に、その通り道があり、よりピュアな人ほど感応しやすいのかも知れません。

その通信経路を塞ぐのが、執着する力なのでしょう。

我々は、欲を持ち、執着の中にある時、その渇きにある時、その汚れの故に神を知る事ができないのです。
得て所有する事で満足を感じても、その幸福感は欲に根差したものであるが故に、持続する事はないでしょう。
すぐさま新たな、得たい、所有したい対象が現れるに違いないのです。
そのような幸福感は、欲が姿を変えた、汚れでしかないのではないでしょうか。

人が何かに執着して止まない時、神に惹かれる状態にはないと思われます。
また愚かにも、所有したくてたまらないそのような時にも人は神に頼ったりもするのです。
それは、執着を満足させるために神を利用しようとしているのです。
もしもそれに応えてくれる神があるのなら、それは好ましくない存在の助けであるかも知れません。

全くそれは、神を知る事がないために起こる、エゴの働きです。

エゴはあるのです。

なぜあるのでしょう?

それがない事には、世界が成り立ちません。
世界を認識するのは、エゴ、つまり「わたし」意識です。

神はそのようなエゴに主体性を持たせる事で、世界に暮す物語を見せているのです。

つまり、そのような事さえ、全く間違ってなどいないのです。

そうであっても、人は完全に愚かに成り切る事もできません。

エゴが織りなす、人の物語の中に、神の慈悲、神の愛を見せられる場面が現れます。

そのような時、内側のある部分が振動し、感動が呼び起こされ、涙する事でしょう。
それは一時的に、通路が活性化される事で起こります。
感受する現象が、それを促しているのです。

それがいわゆる、ハートのチャクラの共振現象です。

しかし、それは恐らく、永続的に持続はしません。

たとえば、人々の愛にまつわる感動的な映画をみたとして、その時は大いに感動し、涙を流し、心を震わせていたに違いありません。
しかし、日数が過ぎ行き、日常のせわしさに身を置いていると、その感動は冷めていく事でしょう。

そして、もう一度あの感動を味わいたいものだと思い、同じ映画を見たとして、同じレベルの感動がよみがえるでしょうか。
この映画は何度見ても感動する・・・と言う人がいて、それは確かに同じ感動でしょうか。

何度も見たい、というそれは、最初の感動があってはじめてそう思うのです。
そうであるなら、最初の感動の味わいが記憶として保存され、それを基に思うのではないでしょうか。

つまり、二度目の感動は、最初の感動との比較としてい味わうのでしょう。
そのようにして、三度、四度と見る度に、感動は新しいものではなくなり、ついには最初の感動とは比べ物にならないほどやつれてしまいま

す。

神の愛に感応する通路を永続的に活性化させるためには、汚れを落とす事が無ければ、無理だと思われます。

それだから、エゴを捨てよと言われます。
しかし、エゴさえ神のみわざに拠るのです。
それは、消える事がありません。

大事なのは、エゴの役目、そして、エゴとは異なる真実の自己の存在を、しっかりと認識し気づいていなければいけないという事です。

その両者の違いに気づいているなら、エゴはエゴとして認め許し、真実の自己としての立場に在り続ける事が可能です。

映画の最初の感動を、その同じ感動を二度目には味わう事ができないのは、エゴに主軸を置いているからです。
エゴが記憶を探り、比較する事で同じ感動であるか否かを判定しようとしているのです。

もしも、同じ感動か、あるいは新たな感動として味わいたいのなら、最初の感動は消滅していなければなりません。
つまり、常に「新しい今」になければいけないのです。

エゴは記憶であり、真実の自己は、新しい今にあります。

新しい今にある、この真実の自己でいるのであれば、過去に見た映画を再び見るという事はありません。
同じ映画だとしても、それは初めて見る映画なのです。

さて、気づきが起こり、ハートの活性化が現れ、満たされた幸福感さえ覚えたという人が、日常に溺れ、いつしかその感動を呼び起こす事などもはや出来なくなった。

そのような人は多いのです。

それはエゴに、以前と同じように支配されているからに他なりません。

つまり、あの感動を再び味わいたいと思っているからではないでしょうか。

それは捨てなければいけません。
あの感動は、衝撃的ではあったにせよ、消滅されなければなりません。
そうでなければ、いつだって、あの感動によって、新しいものが覆い隠されてしまいます。

比較する事無く、新しい感動を味わうのです。

新しい今にある、新しい真実の自己が、新しい気づき、感動、至福、愛、を味わえるのです。

過去のそれらに執着するから、汚れが付着した事に気づかないのです。

神の声を聴くのです。
通路を掃除し、常にピュアでなければいけません。

日常に暮らし、エゴを持っていても、同時に真実の自己に、神に気づいていなければいけません。

神に惹かれていなさい。

「荒野で呼ばわる者の声がする」

この宇宙観をはるかに超えた真実を、探るのです。

つくづく、思います。

エスの、なんと偉大な事か・・・

しかし、我々は誰でも、神を知る事ができるのです。
それは、なりたいという願望によるのではなく、神から送られている波動を感受できるだけの清らかさに立ち返れるかどうかによります。
そしてそれは、不可能な事ではありません。

声としてではない、もっと直接的な呼び声を聴く事ができるのです。

 

2013-06-08

 

shikoutoshi.hatenablog.jp