わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】信じるとはつまり、騙されているという事なのです

アクセス下さる読者皆様に心から感謝申し上げます。

このブログは、わたしが体験し、そこから学びわかった事を記しております。

どうでしょうか。
一連の記事内容を、皆さんは理解して頂けてるでしょうか。

これらを書き始めた理由は、今まで自分だと思っていたこの「わたし」意識とは違う、今まで気付けなかった次元を超えた真実の自己があるのだと、知るに至ったからです。

人に教えようとか、おこがましい事など考えてはおりません。
わかって来たうちの、大まかな内容を、言わばメモとして残しておこうと考えたのと、真実の自分の理解、真実の神の理解、「わたし」という意識のもっと根底に広がる無辺の世界、そのような気付きに、もう少しで手が届きそうな方の、ささやかなヒントにでもなればという思いから、書き始めました。

教えよう等とは考えていないから、理解されなくてもそれはそれでいいのです。
教える役目は、他の聖者・賢者皆様がしてくださるでしょう。
しかしながら、人が陥りやすい傾向があり、その事について実は危惧しているのです。

それは、これらを理解するのでもなく、体験するのでもなく、ただ信じてしまう人がいるのであれば、それはある意味危険であり、わたしの本意とするところでも無いという事です。

人は体験からしか学べないし、体験を通してしか本当にわかる事ができないのだと、改めて思っております。

例えば、それが真実真理であったとしても、人から言葉によって伝えられる事は、同じ体験、あるいは似通った体験をしない事には、完全にその意図、意味を汲み取る事は出来ません。

聖書や聖典、仏典に記された事柄も同じです。

気づきや覚醒、悟りに触れた者にしかわからない事がそこには記されているからです。

まったく全てが理解不能であれば、何の問題もありません。
こんなしょうもないもん・・・と放っておけばいいのです。
しかし、我々は幾つかの生の遍歴によって、様々な事を体験し、それによって学んできました。

聖書、聖典、仏典に記された幾つかは、それで汲み取る事も出来ます。
それだからこそ、これは真実であるに違いないと、ただそれだけで、全部を信じてしまう自己誘導に陥るかも知れないのです。

かつて、プトレマイオスの天動説、コペルニクスの地動説、発表された当時に於いてはそれぞれに支持され、皆がわかったような振りをしていたのでしょう。
今は、どちらが支持されているのでしょうか。
まあ、それも国の事情によって今でも異なります。

わからないうちは、どちらかが正解で、どちらかが間違いなのだろうと思います。
とりあえず、大勢を占める意見を取り入れるのが大方の受け入れ方なのでしょう。

わかってしまえば、どちらも不正解だと言い切れるのです。
実際は、天も地も静止しておらず、どちらもアクティヴな動きの中にあります。
しかも、驚くほどの高速で。

天動説も地動説も、相対の一方に偏って見る事による概念に過ぎません。

真理、真実、神や真我・自我、アートマンブラフマンも、わからないうちは概念の中で取り沙汰されているだけです。
ところが、何度も繰り返し「こうなのだよ」と言われ続けると、「そうかも知れない」「そうに違いない」と、わからなくても信じてしまいがちです。
そうして意味もなく、有難がったりします。

それだから、信仰と言われます。

信じて仰ぐ。

信じる事は、わかるという要素が介入しません。
わからなくても信じてしまえるのです。

信仰・信心は、多くの聖者によって、人にとっての尊い行為であると言われる場合があります。
ただし宗教上の理由からでしかありません。

わたしのようなアドヴァイティストの立場に立つ者にとっては、とても違和感があるのです。

つまり、信じるという行為が何故こうも簡単にできてしまうのか不思議でしょうがないのです。
わかっていないのに、信じてしまえる不思議さです。

しかし、信じる人は、わからないから信じるのだとも言えるでしょう。
わかったら、信じる必要などあるはずが無いからです。

「わたしは1+1=2であると信じている」と言う言い方は誰もしません。
それは、明らかに誰でもわかっている事であるから、そのようには言わないのです。
本当にわかったなら、もはや信じるという境界を越えてしまうのです。

さて、このブログでわたしが言い続けてきた事は、理解されているでしょうか。

同じような体験をしてきた人にはわかると思います。
しかし、皆がこのような事を体験した訳ではないでしょう。

そうであるなら、わからない人の方がほとんどかも知れません。

わからなくても、何も問題ありません。

ただ!

「わからない事は、わからないままにしておいてください」と言いたいのです。

それを信じ込もうとするのはいけません。

人は、前述のように、わからない事を信じてしまう傾向があるのです。

はっきり言います!

信じるという事は、騙されているという事と同じです。

わからない事は信じたりせずに、そのような捉え方もあるのだろう、ぐらいの受け止め方でいてください。

信じない事は、疑う事ではありません。
我々は、信じない事を否定と同義とする傾向がありますが、それは別物です。

信じる事が、いかに脆弱性をはらんでいるか、わかってください。

人は、わからなくても信じられるのです。

そうして、やがて、知らないのに知っていると思い為してしまいます。
つまり、信じるから洗脳されます。
信じる対象に依存してしまうのです。

ついには、信じているだけで実際にはわかってないという事実さえ、見失ってしまうのです。

そのようにして、取り返しの付かない事件に巻き込まれて行く人のなんと多い事か。
それだから、真実・真理は、宗教的な位置づけで探求しようとしても、実のところ難しいと言えるでしょう。

占い、霊障、いわゆる外の世界の神、こっくりさん、怪しげな新興宗教、○○○星人とのチャネリング、いろんな事があなたの意識の中で他人の言葉によって誘導され、あなたが意味づけして固定してしまいます。

それが信じるという事です。
それは、全て、あなたの意識の中の、あなたが意味づけしてしまう虚偽です。

それは、「あるがまま在る自由」を拘束してしまいます。

こうでなければいけない、こうであるべきだ、というありもしない固定された概念を基に論争闘争に走らせます。

主義主張や思想による論争、宗教闘争は、わかっていないのに信じてしまうから起こる、エゴ対エゴの対立です。

わからない事は、恥ではありません。
わからない事は、わからないと言い切れなければいけません。
それが、あるがままの今であるのなら。

それだから、わたしの言う事も、信じてはいけません。
わからないうちは、わからないでもいいのです。
わからなくても、体験していく日常が、わかる状態に導いてくれます。

しかし、信じてしまえば、もうそこで道は閉ざされます。
信じているから、何も受け付けない状態になってしまいます。
何を言っても、跳ね返されます。

盲信、狂信と言われます。

人には誰にでも、わかる能力、その力を備えている奥底の部分があります。
素直なその部分が、わたしにはよく見えています。
それだから、そのような信じてしまう状態に陥った人を見る度に、「もったいないなあ」って、つくづく思うのです。

「信じる事なしに、もっと探求を持続させれば手が届くのに」と思ってしまうのです。

人の現状は、様々です。

苦境にあえぐ人もいるでしょう。
また、楽に人生を歩いている人もいるでしょう。

しかし、最初から最後まで楽々に歩いて終わるなら、学びはありません。
無駄な人生とさえ言えます。
苦しみ、悲しみ、喜び、そのような時々の変化があってこそ、気付き、学びがあります。
このどうしようもない苦しみの意味は、何なのだと、頭を抱えて問わずにはおれないその事が、やがては答えを導きます。

人から教えてもらった事が、その問いを完全に満足させる事は、無理かと思うのです。
僅かに、ヒントや支えにはなってもです。
あるいは、信じてしまって、学びを放棄するのであれば、それはとてももったいない事です。

しかし、信じてしまって失敗するというその事も、人にとっての大切な与えられた失敗である事が、悲しくも悔しく、どうか信じないで、わからないならわからないまま、歩き続けて欲しいと、言ってしまいたくなるのです。

とにかく、体験しない事には、やはり始まりません。

その体験が、次の偉大な悟りへの体験のステップである事には違いありません。

どんな事にも、それなりに意味があり、導かれているのです。

従って、あなたの為すべきは、導く彼、全てを与える彼、真実のあなた、神に委ねて、エゴを差し出す事。
それ以外に無いのだと言う事です。
導きを信頼し積極的に受け入れるという事です。

その時、導かれるべき道さえ一瞬のうちに解き放たれ、ショートカットで神によって引き受けられます。

実に不思議な事が起こるでしょう。

誰もが、早く、その喜びに歓喜して欲しいのです。

それが、たぶん。

あなたの遍歴を重ねて来た長い長い物語の、目的、あなた自身の使命なのでしょう。

その使命感を忘れてはいけません。

その物語が、その旅が終わるまでは。

 

2013-06-16

 

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