わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】燔祭(アブラハムとイサク)

「神はアブラハムを試みて彼に言われた。
あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地へ行き、わたしが示す山で彼を燔祭として捧げなさい。」

燔祭とは、生き身を焼き尽くす事で神に捧げるという事。
つまり生贄(いけにえ)の事です。

人が生贄を捧げるのは、我が身に及ぶ災難を回避するため。
自分の罪を逃れるため。
神の怒り(自然災害)をなだめるため。

誰かのために、他の誰かに犠牲を強いる事。
自分だけは助かりたいという、保身の行為です。

さて、神がそのような事を奨励するでしょうか。
神はそれを見て、人々の信仰を喜ぶでしょうか。

人の信仰を試すために、何かを強要するでしょうか。
そのような、不良がトイレでカツアゲするような愚かな事をするでしょうか。

つまり信仰とはそういう事です。
神を知らなくても、信仰できてしまうのです。

そしてもちろん、神を知る事が無いから、信仰するのです。

神を悟ったら、信仰という虚偽の理解を捨ててしまうに違いありません。

信仰は、人の発明した概念であり、我々は幼い時からそれによって脅迫され続けて成長してきたのです。

罰が当たる、地獄へ落ちる、天国へ行けない、災難が降りかかる、そのようなカツアゲをされ続けてきたのです。

強要による信心は、なんと愚かな事でしょうか。
洗脳でしかありません。

神とは、そのような恐ろしいものでしょうか。

神を悟るのに、作法、しきたり、祭壇、儀式、そのような行為が必要でしょうか。

なぜ人々は真実を見るという事をしないのでしょうか。

神は、こんなにも人の為に、あらゆる命の為に、熱心に愛を与え続けているというのに、それを知る事が出来ません。

あなたが今在るのは、それは既に神の愛の中に在るという事に、なぜ気づかないのでしょうか。
ほんとうは無い「わたしと世界」を、体験と学びのために、リアリティをもって現しているのです。

妄想、倒錯によって、自分の身代わりを差し出す事が、神のみこころに叶う事だと、好き勝手な事を言ってはいけません。

もちろん、今ではどこの国でも燔祭などしてはいないでしょう。
でも、名残と言うか、人形(ひとがた)のようなもので、それを代行する奇行的儀式は残っているかも知れません。

思い違いをしているのです。

あなたの何をも、別の人、別の命、別の形が、請け負ってはくれません。
あなたに必要な体験が用意されているのです。
あなたにしか出来ない、あなたの為の学びです。
燔祭という行為は、それを拒否して自分の都合のよいようにごまかす行為。

それを誰かに代行させようというなら、生まれてきた意味など何処にあるのでしょうか。

それだから、受け入れなければいけません。
今、現れている一切は、あなたのために用意されたのです。
そこから悟らなければ、いつ悟れるのでしょうか。

そのために現れている今です。

神は恐れる相手ではありません。
あなたをこんなにも愛しているのです。
決して離れる事無く、置き去りにもする事無く、辛抱強く、あなたに関わっているのです。

死後、裁きにあう・・・という言葉があります。
これも脅迫です。

神は裁きません。
あなた自身が裁くのです。

信仰に於いては、悪い事をすると地獄に落ちるから善い事をしなさいと言われます。

そのような善行は、偽善です。

地獄に落ちるのが嫌だから善行するというのが、自己保存の考えから来ているのは理解できるでしょう。

善行は、ただ、人々の幸せのために。
そうでなければ、善行ではなく、保身でしかありません。

そこには、見返りなど一切望まない、清らかな愛があるだけです。
これをわかって頂けるでしょうか。

あなたに、真実の愛が芽生える時、神は悟られるでしょう。
それは、神と波長位相が整合された証しなのです。

あなたのハートからの「呼ばわる声」とは、愛そのものなのです。
ハートこそが、あなたにとっての祭壇です。

善行とは、人の幸せを想うが故の行為です。
それをする人が、善人です。
彼は、決して見返りを望む事がありません。

見返りを強いる宗教、地獄に落ちると脅迫する宗教、そのような偽宗教に騙される(信じる)事のないよう、愛を基準に検証してください。

聖書に於けるアブラハムとイサクのこの一節は、その気づきのために用意されたのかも知れません。
信者がここを読んで、どう咀嚼するか、伝承されるうちに、ちょっとしたトラップが用意されたのかも知れません。
そのトラップに気づいて引っかからない注意深さを持ちなさいという事かも知れません。

長い年月をかけて、今に伝わる聖典です。
時の権力者や、時代背景によって、削除されたり、書き加えられた部分が無いと言い切れるものでもありません。

明らかに変だ、間違っていると思える部分が出てきたら、疑っても罪にならないし、罰も当たりません。
それは、あなたによって解き明かされるでしょう。

伝承よりも、あなたが生きている今、その体験こそが聖なる物語です。

ほんとうの愛とは、こんなにもすばらしいものであり、それこそが人にとっての本質なのだと、わかってください。

 

 

2013-06-21

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。