わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】わたしは在る!

今、気づいた事があります。

それは、自分は人間だと言う意識がとても希薄だという事。

これは昔からそうだったような気もするし、近年そうなったような気もするし、この今、こうなった気もするのです。

それは、たぶん、過去を拾い集める事をしなくなったからなのでしょう。
それだから、いつからこうなのか、思い出せないのでしょう。

過去から自由になると、思考をそれに引きずり込まれる事がなくなり、自分が何であるか、おぼろげになる。
明確に生物学的なカテゴリーの枠に居なければならないという思いが無くなる。

とりあえず、わたしは生き物ではあるのです。
同時にわたしは、「これ」であるとしか言えない。

「これ」というのは、

ああ、「これ」を説明できたら、どんなにいいだろうかと思うのです。

わたしが「わたし」と指す時は、以前のような「わたし」ではなく、つまり、身体や脳や、思考が主張する「わたし」ではなく、それとは全く異なった在り方、異なった「何か」を指しているのであり、またそれは、この世界と完全に離れた世界の事でもなく、この世界を見ている「わたし」と、別の世界を感覚している別の「わたし」が離れる事なく同時に在るような感覚の中で、その別の世界を感覚している「わたし」の方を、指しているのです。

異なった在り方、異なった「何か」と言っても、この日常に於ける現実の世界、「わたし」と分離などしてはいなくて、その二者は全く同じ一者であって、ちょうど一枚の紙の表と裏の中間に居るような感じです。

別の言い方をしてみましょう。

人は魂とか霊とか口にします。
生きている人は、個としての身体をもって生きている。
だけど死んだら、身体から魂やら霊やらが離れて、この世に存在する事はできなくなる。
そのように思っているかも知れません。

しかし、わたしの認識は違います。
人は、あるいは他の生き物も、基本的にみんな生きていようが死んでしまおうが霊であり魂なのであって、その在り方は皆同じなのだという事。

生きている我々も、本当は霊として同じ非現実の、つまり真現実のフィールドに在って、その個々の意識に世界を映し出しながらお互いに作用し合い、反応し合い、世界を描き続けているのだと。

死んだといのは、彼が世界を描くのを止め、反応し合う仕事を、まあ、とりあえず休止し別の何かと別の反応、別の仕事をはじめた状態なのだという事。

わたしが自分を「わたし」と指す時は、身体にアンカーされた「わたし」ではなく、生きていようが死んでいようが存在として消え去る事の無い「それ」を指しているのです。

ニサルガダッタ・マハラジの言葉を本にして出版した人がいて、それをまた邦訳した人がいます。

師は、「 I am that. 」と言いました。
邦訳した先生は、「わたしは在る」と訳しました。

存在として消え去る事のない「それ」を指していると、わたしが言うのは、つまり、「わたしはそれだ!」と言っているのです。
まあ、分離していないから、「わたしはこれだ!」でも言いのです。
つまり、「 I am that. 」と言っているのです。

その「それ」あるいは「これ」を、内側と言っているのです。
対する外側とは、身体を中心とした「わたし」の世界の事です。

邦訳した先生は、どうして「わたしは在る」としたのでしょう。

こう訳したから、この「わたし」と思い込んでいる意識とは別に、「別のわたし」というものが知る事のない世界に「在る」のだろうと思い込み、一生懸命それを探そうとします。

「わたし」「わたし」・・・わたし・・・と。

しかし、それはわかっていない人の受け取り方なのだと思うのです。

「わたしは在る」この邦訳は、ほんとうはとてもすごい事なのです。

これは、マハラジの言いたい全てであり、わかってしまっている人にとっては、「いかにもいかにも・・・」と大きく頷ける言葉なのです。

日本語の使われ方も受け取られ方も、ひとつの言葉でとても広く意味を持っていて、時には正反対の意味で使われたりします。
しかも、日本人はその違いを明確に使い分け、明確に理解できます。

若者はストライクゾーンに入った、つまり綺麗な好ましい女性を「やばい、超やばい!」と言います。
それを聞く友人も、それは「すんげえ好みのタイプ!」という意味で取るわけです。

しかし、ちょっと考え込むような深い意味を含んだ言葉には、考えすぎで、むしろ意味が正確に伝わらない事もあります。

「わたしは在る」

これを、「わたしというものが在る」と読み取る人は多いのです。

ですが、これを、「わたしは『在る』である」と取る人は何人いるでしょうか。

「わたしというものがこの世界とは別の精神的世界に存在する」と受け取る人は、一生懸命その「わたし」を探すでしょう。

しかし、後者の理解で読み取る人は、「わたし」を探すのではなく、「在る」を知るために深く深く入り込む事でしょう。

わたしというものは、ほんとうは「在る」そのものなのです。

わたしが自分を「わたし」と指す時は、つまり、それを言っているのです。

モーセがエジプトを脱出してシナイ山に差し掛かかり、神がモーセに及んだ時に、モーセは言いました。
「あなたはどなたですか?」
神は言われました。
「わたしは「在る」である」

その「在る」です。

それはわたしの「ほんとうのわたし」であり、あなたの「ほんとうのわたし」です。

我々は、「在る」でありながら、マーヤによってお互いの意識にお互いが作用反応し合って、お互いの中に世界を創り「個」の「わたし」、「個」」のあなたを創り出して、その世界に住んでいるのです。

幽霊を見る人は、ほとんどいません。
しかし、幽霊を見る人といっしょに居て、彼が幽霊を見ると、作用反応によって見ない人も見る事があるのです。

しかしながら、その幽霊も、創り出した幻です。

我々は生きていても、だれもが幽霊と同じ、霊であり魂です。
また、幽霊、魂、それも概念であり、創り出されたものです。
ほんとうは、ちからが感覚させているのです。

マーヤはそのように、我々を楽しませる(苦しませる)世界を創る役目を持ったちから(フォース)です。
しかし、同時に我々に学ばせる愛でもあります。
我々はそれを、「ここ」で(物質的な座標で示されるここではなく)あたかも実在するがごとく体験するのです。

我々は、「ここ」にあり、そして「在る」なのです。

それに気づいたなら、わたしは人間だと言う意識が、どこかへ行ってしまいます。

だって、わたしは「在る」なのですから。

それは「ここ」であり、「これ」であり、だから、「 I am that 」なのです。

「わたしは在る」

見事な邦訳であり、誤解を招きがちな、つまりそれに近い人に、よりわかり易い邦訳です。

すばらしいですね。

とはいうものの、わたしはマハラジの本を一冊も持っておりません。
ちょっと一部を垣間見ただけです。
「わたしは在る」これだけで、充分だったからです。

マハラジも言っています。

師に言われた「わたしは在る」
これを、疑う事無く探究し続けた・・・と。

わたしの大好きな聖者の一人です。
出来る事なら、もしも生きておられたなら、友人として語り合いたい人です。

畏れ多い?

そんな事ありません。
我々に誰ひとり、上下の区別など存在しないのですから。

 

2013-06-30

 

 

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