わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】質問にお答えします(Yさん)

質問を頂きましたので、お答えいたします。
言葉から答えを読み取るのではなく、感覚、センスの海に潜って自身の洞察を活性化して頂きたく思います。


>> 私は、とても強烈な怒りや憎しみを持っていて、それに苦しんでいます。悟りや目覚め・・・自由というものや絶対的な真実、安息というものに憧れているけれど、どうしても強烈な自我を手放すことができません。 

救われたい思いで様々なことを試したり本を読んだりしたけれど、どれも無意味で、結局、自分を苦しめているのは自分(自我)なのだということがようやく少しわかってきました。(けれど、怒りや憎しみに囚われると、出来事や人のせいにしたりします)。 

瞑想によって悟りは起こらない、恩寵だけだと花岡さんの記事に書かれてありました。でも、自己浄化をしたり悟りへの準備をしたりするのに、瞑想は効果的だと。 

けれど、私にはその瞑想すらも苦痛です。 
「こんなことやっててなんになるんだろう」と考えてしまい、面倒になって、続きません。 
知人はある瞑想を伝授してもらい、続けているととても穏やかになったと言っていて、うらやましい、自分は取り残されてしまうのではと感じるのですが、自分には続ける自信もないし、お金をかけてまでやらなければならないということが嫌なのです。 

今までラムサ、ガンガジ、プンジャジなど多くの本も読み、知識だけは「頭の中に」詰め込まれていますが、それだけです。質の悪いことに、その知識で他人を評価したり、裁いたり、見下したりしているのです。 
ある方の弟子にしていただいたのですが、その方にも、やり方にも反発心を持ってしまい、離れました。その方には両親とのシコリを取ることがすべての解決につながるということでしたが、シコリ取りという行為も苦痛だしよくわかりませんでした。それどころか、シコリがあるということに拘り、逆に憎しみが倍増されてきているようにも感じます。 

「なにをやっても結局は大嫌いな自分のままだ。今までお金をかけ、時間を費やし、何をやってきたのだろう」と、自分を責めてしまいます。 

でも、このまま強い怒りや憎しみに囚われている自分、思考や妄想や計算でいっぱいの自分から逃れられないのは苦しく、辛く、花岡さんのおっしゃる「手放す」ということができたらどんなにいいだろうと思います。 

こんなどうしようもない私は、どうしたらいいのでしょうか。 
悟りや自由に拘っている自分もよくわかっています。 
このまま、「その時」が来るのをただ耐えて待つしかないのでしょうか? 


Yさん、こんにちは。
わたしの家族を気遣って頂き、ほんとうに有難く、感謝申し上げます。
そして、今とても苦悩されているという事で、辛さがわかるだけに、あなたの為に祈らざるを得ません。

70億の人間達の中で、悟りや覚醒、真理に目覚める事に興味を抱くという人は、とても少ないパーセンテージです。
ところが、その希少な人達のほとんどが、そのように、自我、感情に振り回され、葛藤や自己否定に苛んでいると思うのです。

Yさんだけではありません。
10人の求道者がいれば、9人はそれだと思うのです。

怒りを制御したいのに、それに捕えられてしまう。
許せない、強烈な憎しみ恨みそして、そうではありたくないのにいつしかそういう自分になっている事に気づき、自己を嫌悪してしまう。

それでも、悟りと言うものに、満ち足りた自分というものに、なお惹かれていく。
どうしても消えることの無い、真実の自分への憧れ。

それは。

まったく順調な推移です。

過渡期なのです。
言うなら、進級試験、あるいは卒業試験の最中です。

自らが自らの、そのような心の状態を観る事で、観る者と観られる者との異質でありながら離れていない意識の成り立ちを体験させられます。

それが無い事には自我から真我への移行など出来ないと思うわけです。
自我を際立たせる事で自我を観るという習慣化的修練が、自我の作為の及ばない所から操作されていて、今あなたはその状態に在るという事です。

みんな、そこを通って「あそこ」を目指すのです。

言ったら、今、確かにプールのスタート台に立ち、向こう岸を向きながらも泳ごうとしない状態なのでしょう。

自我を捨てるというのは、逃避であってはいけません。
逃避は、すなわち、囚われている状態です。
逃げようとするのは、わたしは囚われていると叫んでいるようなものです。

逃避を放棄しなければいけません。
自我にしっかり向き合い、見つめ、苦しみを憎むのではなく、怒りを憎むのでもなく、憎むのを憎むのでもなく、それらを許してあげてください。

そのような自分を許してあげてください。

そして、ただお別れするだけです。

「もういい、捨て去ろう」そう思うでもなく、「ただ、そうする」だけでそうなります。

思考によってそうするのではなく、「ただ、する」のです。

決意も掛け声もカウントダウンもいりません。

それができないのは、拠るべき対象が明瞭ではないからでしょう。
地に足が着かないような、不安定な状態です。
今までは、その自我が、すなわち「わたしという意識」が拠るべき主でした。
その主の為すがままだったから、得られる全てが苦しみでした。

それは生い立ちの過程で周囲から影響されて築き上げてきた価値観、基準、当たり前、常識、そのようなものが欲(本能的執着)と混ざり合って出来上がった思い込みの自分が、思い込みの価値を求めていたからです。

我々は、そのような思い込みの自分(自我)と、そうではなく、それを自我であると見破っている自分が在る事に気づいています。

そうですよね?

しかしながら、見破っている自分に決定的な存在感を見る事ができないから、真実拠るべき自分(真我)を認識できません。

認識できなくても、最初はいいのです。
また、そういう真我というものが在るのだと、信じる必要もありません。

ただ、自我を見つめる事ができる状態に気づいてください。

Yさんは、確かに見つめているから、その自我に苦しんでいるわけです。

見つめない人は、苦しむ事無く人を傷つけたり、おぞましい行為をへっちゃらでやってのけます。

見つめているから苦しいのでしょう。
見つめているのは誰でしょうか?

それが何かがわからなくても今はいいのです。

見つめている状態に気づければいいのです。

あとは見つめている者に、行為の一切を、顛末を、起こる全てを委ねてしまえばいいのです。
見つめている者を信頼してください。
それが何者であるかなどどうでもいいです。
完全な信頼ができるなら、彼は運んでくれます。

完全な信頼とは、起こる事象に不満を持たず受け入れるという事。
その結果に「こうであってはいけない」「こうあるべきだ」という意味づけを持ち込まない事。
それらは全て、間違っていないと理解する事。
それら全てが、「わたしのために現れているのだ」という理解を持つこと。
そして、見つめる者を(意味づけをせず)愛する事。

それらが出来ないうちは、自我は苦しみを意味づけて行きますが、それさえも許してあげてください。

あなたのためを思っての、苦しみです。

どのような意味づけをしてしまう自我でも、許してあげてください。
また同じように、周囲の全てを許してあげてください。
あなたの中の大切なものが目覚める為の、用意された周囲です。

許せるのが愛です。

今までは、自我の行為によって自我自身が苦しんで来ました。

それを全て許してあげてください。

そうすれば、自我は解放する事ができます。

そしてもう一度言います。

ただお別れするだけです。

「もういい、捨て去ろう」そう思うでもなく、「ただ、そうする」だけで自我は離れた位置に置かれます。

つまり、拠り所がシフトされるのです。

シフトされる先が何であるか、何者であるか、こだわる必要はありません。
あなたが全てを許す事が出来たのであれば、それは愛そのものの力、作用です。
所有ではない、執着ではない真実の愛は、本当のあなた(真我)の活動の根本です。

その愛さえ理解できるならば、自身から同じ愛が溢れ出します。
愛が現れるなら、その何者かがもうわかります。

それはどこか遠くにまします誰かではありません。
「ここ」に最初から共に在った「在る」です。
あなたは、原始の最初から「ここ」に在った「在る」です。
宇宙が生まれる前から、「ここ」にそのまま在って、「今」も同じく「ここ」に在るのです。

「いつかそうなるだろう。その時を待つ事にしよう」という考えが合理的ではない事に気づきませんか?
もちろんそうして悪いはずなどありません。
しかし無意味です。

今できるなら、そうしなさいなどとも言いません。

ただ、そうするだけです。

この線引きを、超えるか超えないか、それだけです。

スタート台に立っているのです。

次は、泳げばいいだけです。

とてもシンプルでしょう?

内も外も、今も過去も、すべてを愛するかどうか、すべてを許すかどうか。

愛するだけです。
許すだけです。

それはあなたのルーツ、コア、それを完全に信頼し、おまかせし、受け入れる事です。
なぜって、全てあなたの認識は、現象なのですから。
そして、もう終わって、今には有りません。
それを怒ったり、憎んだり、恨んだりして、どうなると言うのでしょうか?
そのような意味づけを、やめる事です。
過去に入って、ほじくり出す事をやめてください。

再度言いましょう。

許すのです。
そして、愛するのです。

一気にできなくても、やがて来るそれを待とうという結論をしないでください。
できなくても、問題ありません。
問題ないのだから、続けてください。

できなくても、
忘れる事無く、愛してください。許してください。

この事が、理解できないかも知れません。
何度も読む意欲も湧いてこないかも知れません。
でも、わかるまで読み返してください。

言葉では伝えられません。

あなたの洞察に、わたしとしては頼るしかないのです。

この言葉達の並びの中から、言葉以外のスパークのような、閃光のような、智慧を召喚してください。

愛する事、許す事。

自分も他も。

そうすれば、その線引きを超えられます。

その時、感謝と至福とが同時に起こるでしょう。

恩寵が与えられるのです。

それは拒否できません。
受け取る以外、ないのです。

どうか今まで体験したことの無い、あなたの真我からの愛に包まれますように。

あなたの認識する全てを現している、内なるあなた自身を信頼してください。

このような知る事の無かった真実の愛を、あなたは受け取るスタート台に立っているのです。

わたしは見返りを求める事も無く、ただ背中を押してあげたい思いでいっぱいです。
なぜなら、それを知っているからです。
このような素晴らしいものは、みんなに知ってもらいたい、ただそれだけです。

しかし、それはわたしがどうにかしてあげられる事では無く、あなたに係っているのです。
誰もそこに連れて行ってはくれません。

両足を蹴って、ただ蹴って、両腕を突出し、水に触れたら、両足をドルフィンして、浮き上がったら水をかき出す。
ただかき出す。

そうすれば、もう彼の岸です。

全くシンプルです。

意味づけして、あーだこーだ、それをやめる事です。

瞑想に馴染めないなら、無理する事はありません。
それが無くても、人は悟れます。

本を読むのは、知識を溜め込む事で、悟りそのものにとっては妨げになる事もあるかも知れません。
読むのではなく、理解するなら有効ですが、悟った人の言う事は、悟ってみないと理解できないというのも事実です。

混乱を招く事もありますので、ご注意ください。

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コメントして頂きました、初めての方々、そして何度か訪問頂いている方々。

励ましの言葉を、どうもありがとうございます。

御礼のレスも入れずに、大変失礼しております。

未だ盛夏は終息致しません。
この後も、もう少し更新停滞は続きます。
どうぞご理解頂き、皆様に於かれましては、お体に留意してお過ごしくださいますよう。

至らないわたくしではございますが、質問にはなるべくお答えするよう、努めます。
ただし、ヒント以上のものではございません事を了承願います。

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雲を見る。

雲として見ずに、ただ見る。

同じ形のものは、過去には無かった。

雲はいつも、今。

今の雲の形を見るのは、今の新鮮な、この瞬間現れている今を見るのと同じですね。

空の広さが、おおらかな気持ちにさせてくれる。

わたしの世界は、こんなにも、神の愛に満たされているのですね。

 

 

2013-08-21

 

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