わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】リトリート、セッションについての質問

>>質問させていただければと思います。
いつも花岡さんのブログを楽しみにしています。
対話形式でもリトリート形式でも良いと思うのですが、
個人、集団セッションなどをする事へのお考えを教えていただけますでしょうか?
声や映像がという事であれば、リアルタイムなチャット形式でも良いのかなと思っています。
どうしてもブログですと一方通行になってしまいますし、伝授という意味ではよりよい形があると思っております。

どの方も会った事もないので、分かりませんし、
そもそもどの人も本質は、神であるそれですので比較する事自体ナンセンスですが悟ったと言われる方のブログ等見ていて、花岡さんのように愛のこもった真摯な表現をする方は希有と考えています。

神の主示しにより起こる事は起こるとは思うのですが、お考えを教えていただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。



非公開さんから、このような質問を頂きましたが、どう説明申し上げましょうか。
いろんな意味で答えに困る質問です。

わたしは伝授する立場の者では無いので、満足の行く答えを提供できないかも知れません。

わたしの考えでは、誰かが誰かに、この深遠な世界の理解を伝えるには、つまり伝えられる側がそれを理解するには、人間性やら価値観やら、お互いの本質に迫る部分での一致、あるいは同化が無いと理解できないだろうと思うのです。

なぜって、彼による悟りは彼が成し得た理解であるから、彼で無い者は同じ理解に到達できないだろうと思うからです。
しかしながら、彼という者を限りなく理解するなら、彼のその悟りも完全ではないにしろ、ある程度は理解できるだろうと思うのです。

そう言う訳で、人がかの覚者の悟りに近づく為には、寝食を共にし、世話をし、何年も何十年も彼を知る努力が必要になるでしょう。
それは彼が見せる事の無い、奥底に隠れている彼自身が忘れ去った記憶のかけらさえ見える程に知らなければ、なぜ彼に目覚めが起こり、何を悟ったのかなど、理解は出来ないと思われるのです。

おそらく過去の覚者の伝授というのは、師一人に弟子一人、あるいは二人、その程度の、しかも長年に渡る共なる生活が無い事には、不可能では無かったかと思うのです。

それが、孫弟子、ひ孫弟子、やしゃ孫弟子と、継承されて何人かの僅かな覚者が歴史に残ったと思われるのです。

それは、一週間のリトリートや、三泊四日の集中セッションや、そのようなものでは到底できる事では無いと思います。
それでも参加者の何人かが、あるいはほぼ全員が陶酔状態になる事もあるかも知れません。
しかしそれは、集団が故の暗示効果、催眠効果でしかないと思うのです。

それは、セッションを終えた参加者がその後どうであるかによって、参加者自らが知っている事でしょう。

わたしがブログで言っている事は、「誰かが誰かに伝授する」という事ではありません。

あなたが向くべき方向性を言っているのです。

誰かの弟子になり、伝授によって理解するには、先に述べたように気の遠くなる程の年月を要します。
しかし、覚醒するのは、誰でしょうか?

あなたが覚醒するのです。
あなたがそれをしない事には、誰がそれをしてくれるでしょう。

自らが自らの全てを観る事がないのであれば、それは難しい事であり、もしも自らが自らの全てを観るのであれば、探し求めているものはそこに在る事に、気づくはずです。

それは、伝授によるそれに比べたら、比較にならない程早いのです。

探すのを外に求めず、自らの内側に探すべきです。

わたしは、その方向性を言っているのです。

そういう立場で、リトリートもセッションも、わたしは意味を成さないであろうと申し上げるのです。

むしろそれは、教祖様を担ぎ上げ、宗教と言う位置づけに陥ってしまう危険性をはらんでいるとも思えるのです。

崇拝は執着です。
気づかぬうちに、人は宗教に執着し、依存し、所有してしまいます。
それは、他派との争いを生じていくでしょう。
他を容認できず、押し付け、罵倒し合い、非難し合い、誹謗し合い、ついにあの時の純粋な悟りへの憧れとは全く逆方向のベクトルに自分がしがみ付いている事にさえ気づけないようになってしまいます。

師を持つなら、一対一、そうでなければ、自らの人生、自らの日常、自らの定めから学び、内なる師から教えられなければいけません。

外にあなたの師はおらず、あなたの内にこそ、真実の師がおられる事を知らなければいけません。

わたしはこの方向性を、ブログで言っているだけであって、伝授しようなどとは全く思った事はありませんし、わたしには出来ません。

そして。

このような事を申し上げたら、質問者様には大変失礼だとは思いますが。
気を悪くしないで頂きたく思いますが。

この質問は質問者の「問題」ではありません。
他の誰かの「問題」でもありません。

つまり、質問者は、この質問を、「思いついてしまった」のです。

できれば質問は、あなたの抱えている解決すべき「問題」によるものであって欲しいのです。
真実知りたい事、その事が抱えている何かの、その扉の鍵となる答えを、わたしから引き出して欲しいのです。

表面的に思いついた質問は、誰の問題も解決しません。
それはしなければしなくてもよかった質問ではなかったでしょうか。

あなたの問題を、まず、あなたの内なる師に訊ねてみる事です。
どうしても答えが返って来ず、それでもそれがわかる事が必要だと思う時は、質問してください。

もちろん満足の行く答えは提示できませんし、導く事も無理でしょう。
しかし、わたしはあなたの為に、その問題について洞察し、あなたの内なる師の声を聞かせてあげる為に努めるでしょう。

わたしの願いは、誰もが等しく、内なる「あなた自身」に気づいて欲しいという事。
真実拠るべき、内なる神を悟って欲しいと言う事。

あまり人気の無いわたしのブログでこのような事を言ってもこの願いは叶う事もないのでしょうが、わたしはいつもそう願っています。

他の人の幸せが、わたしの幸せである事に、なんの疑いもありません。

みんな、わたしの世界なのですから。



2013-09-10

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。