わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】言いたかった事

前回掲載のわたしの駄文、「リトリート、セッションはあまり意味が無い」という事。

それは「誰かが誰かに伝授する」あるいは「誰かが誰かに伝授を求めてしまう」という行為は方向性が違うからですという事を書きました。

先生方には、「何てこと言うんだ」と怒られそうです。
しかし、否定している訳では無く、参加者にとっての臨み方がそうであれば、という意味合いですので、先生方におかれましてはご理解頂きたくお願い申し上げます。

恐らく、参加者は期待するのです。
何かが得られるかも知れない、得たい、手がかりだけでも・・・のように。

かつて仏陀が、アラマ・カラマ仙はじめ、何人かの高僧に師事を仰ぎながらも、得られたものは空しさだけであり、結局独り三年麻麦の行という過酷な行をするに至ったという事実もあります。

結局、深遠な悟りというものは、自らの内側にこそ見られるのだという「過程の結論」に至ったわけですが、それは過程の結論であって、最終結論ではありませんでした。

その二つの方向性は、大きく違ってはいるのですが、主軸は全く変わってはいなかったのです。
つまり、悟りという「願望」があったのです。

悟りたいから師に師事する。
悟りたいから苦行に入定する。

ここには、共通の「願望」「所有」が見えています。

リトリートやセッションに参加される方々は、手ぶらで行くでしょうか。
それとも、何かを携えて行かれるでしょうか。
たぶん、両手いっぱいに「願望」を持って行かれるのではないでしょうか。

行くという行為そのものが、つまり、「願望」の行動表現なのではないでしょうか。
願望があるから、それなりの参加料を支払っても行かれるのでしょう。

結局、仏陀は苦行にあっても完成には至る事が出来なかったのです。

彼にきっかけを与えたのは、ご存じの乳搾りの娘の歌声。
弦は強く張っても弱く張っても、音色は良くない。
偏った執着が真実を観る事を阻んでいた事を知ります。

それで仏陀は、外の師に伝授を求める事も、苦行によって悟りを得ようとする事も、両方の偏りを手放す事によって「あるがままの自分」を観るに至ったのでしょう。

放棄は心を軽くします。
つまらないものにしがみ付いていたという心底の発見が、解放を導き出してくれるのです。

つまらないものとは、つまり、得たい、成りたい、という願望です。
なぜその願望はあるのでしょう。
ひとかどの者として賞賛されたいのでしょうか。
満ち足りた至福を得たいのでしょうか。
どちらにしても、得たいのです。
欲しいのです。
そのような「我欲の煙幕」を通して探しても、輝きは見えてきません。

得ようとして頑張る訳は、願望、偏り(偏った意味づけ、思い込み)にあります。
それを放棄せずに内側を探しても、見えるのは煙幕だけです。

願望を放棄した「あるがまま」の自分で「あるがまま」の自分を観るのです。

さてしかし、この乳搾りの娘の歌のような「きっかけ」は、かなり重要です。
「きっかけ」は人によって様々でしょう。

様々であっても、それはきっと、「内面を揺さぶる何か」であるに違いないのです。

もしも、あなたが「願望」を持ったまま「膨れ上がった期待」をもったまま、リトリートやセッション、あるいは講演会に行ったとして、またそこに「内面を揺さぶる何か」を提供してくれる師がおられたとして、「願望の煙幕」を立ち込めたままでそれを感受できるでしょうか。

また、内側から伝えられる真実があったとして、「煙幕」を張ったままでそれが感受されるでしょうか。

得たい、成りたいは、外を意識しての願望ではないでしょうか。
認められたい何かが外にあるのではないでしょうか。

真実内側を信頼するなら、得たい、成りたいはそこには無く、ただそういうものを解放し切った「あるがままの自分」「純粋な在り方」
内側から伝えられるものを、あるがまま受け入れる「全託の自分」があるだけではないでしょうか。

そのような自分の立場で観察し、臨むなら、リトリート、セッションで師が伝えたいものも「きっかけ」になるでしょう。
実際、心を揺さぶる話は聞くべきです。
心の琴線に触れるその揺さぶりを味わうべきです。
師に愛があり、愛による話をされるなら、それは尊い「きっかけ」として、あなたに及ぶでしょう。

しかし、それしかない訳ではなく、日常のあなたに起こる一切にそれがあるのです。
「あるがまま」のあなたが、あるがまま日常を観察するなら、「きっかけ」だらけであるに違いないのです。

得たい、成りたいという「願望」による戦いを捨て、拘らない、偏らない、解放されたあるがままの自分で、あるがままの何もかもを観察するのです。

もちろん、あるがままの自分をもです。

そうであるから、「あるがままの自分であるか」を常に気を付けて見ている必要があります。
それは四六時中瞑想しているようなものです。
それはつまり、常に内側に居るという事です。

マハラジは言います。
「あなたは外側に居る、しかしわたしは内側に居る」
これは、マハラジの言葉を理解できない質問者へ、方向性から気づかせようとした言葉でしょう。
「それだからあなたは理解できないのだよ」と言っている訳です。

内側に居るのであれば、あらゆる事象に「きっかけ」を得られるでしょう。

それは神がサポートしてくれているようなものです。
そうであるなら、師の言葉が真であるか偽であるか、愛によるのか愛の無いものであるかが、見破られます。

愛による「きっかけ」は、内面を揺さぶります。

わたしに変容が起こった時、わたしには生きる営みを支えるべき何も無く、得ようという気力さえ放棄しました。
同時に死への願望(逃避)さえ捨て去ったのです。
悟りたいなど、事の初めから持ち合わせてはいませんでした。

夜のとばりに包まれて、この空っぽの自分を見つめていました。
周囲から気配が近づいてくるのを感じました。
それは背中から胸に向かって通り抜けたように感じ、その時、内側から言葉によらない理解で伝えて来たのです。

「大丈夫だ。心配しなくていい」

そのような事だったと思います。
それでわたしは、「あ、これでいいんだ。何にも無くて、これでいいんだ」と、何も聞えた訳でも、何かが見えた訳でも無く、理解したのです。

わたしにとっての「きっかけ」は、奪い取って行った日常そのものでした。
そうした日常も、そうさせた力も、そのまま無条件に受け入れた事で起こった解放だったのです。
同時に、わたしの内面を揺さぶった、あの気配、あの存在が現れたからです。
実に愛に溢れた信頼に足るものでした。

わたしはそれを、精霊と呼びました。
名前などどうでもいいのですけど。

それは自分に関わるエレメントであり、根源と自分と精霊と、(まるでキリスト教で言う三位一体のようですが)それは常に離れてはいない同じ「在る」に在るわたしそのもので在る事がわかったのです。

そういう訳で、わたしは日常に学びがあり、体験する事で学ばされるように運ばれると、言っているのです。

もちろん、「あるがまま」でなければ、「きっかけ」はただ通り過ぎるだけです。
「あるがまま」で在る事が、次元を超えた感性を育てます。

常に内側に居て、あるがまま観察し、偏らず、執着せず、あるがままを受け入れる。
運ぶ力、その根源を信頼して、その方向を向いている。

常に神の方向を向いていなさい。

わたしが言いたかった事は、ただこれだけの事です。



2013-09-14 

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する