わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】引き寄せの法則から、与えられる法則へ

人は望んだものを引き寄せるという、いわゆる引き寄せの法則

これをもしもこの自我の「わたし」がやってみるならば、確かに何かしらのものを引き寄せられるかも知れません。
しかし、同時にそれと真逆の対象も引き寄せてしまいます。

二元の世界、相対の世界で、表と裏を分離する事など不可能です。

幸せを引き寄せようとすれば、不幸も同時について来ます。
お金、権力、彼氏彼女、引き寄せようとすれば、負債や失墜、非難や嫌悪も引き寄せてしまいます。

引き寄せようとする思考は、対極にあるものを見ようともせず、それは単一の裏の無い表と見てしまいます。
周囲から刷り込まれた、歪曲した価値観が、そのような倒錯を生み出します。

我々はこの世界に生まれる時に、既に引き寄せて生まれてきます。
つまり与えられて現れるという事です。

我々は偶然現れた(生まれた)者ではありません。
偶然生まれる者や命、物、現象などありません。
それは最終最後まで、見事に築き上げられた、我々の為の体験、学びの順路として既に用意され、それが与えられます。
与えらえるから生まれたのです。

それは変化に富んだ、思いがけない出来事の連続でしょうけれど、体験は二元世界では一方だけ手にして他方を拒否する事は出来ません。

それが物質現象世界のルールです。

そうであるから、あらゆるものが、あらゆる出来事が、必然という法則で動いていて、どこにもミスマッチが起こりません。
完全に整合された、気持ちの悪い激突や多重出現や、そのようなものが無い安定した世界として展開されています。
つまり空中から手が現れるとか、有りえない事は、現れない整合性が存在するという事です。

ところが思考である自我、思考である「わたし」は、潜在的にその中に欲を隠しています。
その故に、願望が現れ、愛しい好むものを引き寄せようとします。

人はそうしないでも、思考の倒錯によって、常に引き寄せようとしていたし、しているのです。

それは、既に引き寄せてしまっている、つまり与えられているもの達(現実)を否定拒否しているのです。
これではない!これではない!と。
神はあらゆるものを既に与えている、というイエスの言葉は、間違いありません。

潜在する欲を持つ自我が、その価値基準をねじ曲げてしまったから、真実はもう見えなくなってしまいました。

それでは、わたしがいつも言っている、自我、「わたし」意識、その思考、その元になる記憶の束、それを放棄するなら、手に入れたり、良い方向へ進むだろうと言っている事も、達成するはずがないじゃないか?と思えるかも知れません。

それは、既に与えられている事、与えられて行く事に、否定拒否する事が無くなるから、素直にそれらを体験して行けるだろう、と言う意味なのです。

我々は、自我の言いなりになって価値基準を誤り、与えられるものを受け取っていなかっただけなのです。

この事を我々は真摯に反省しなければ、最後まで物欲主義者で終わってしまいます。
またそうであっても、それを学ぶあなたの今生であったとも言えます。
どうであっても間違いはなく、それが学びとして現れます。

しかし、今気づくなら、思いもよらない宝を、我々は与えられていた事に涙するはずです。

それは消えてなくなるものではありません。
壊れて、失う形あるものではありません。

与えられているものを、与えているその実体を知る事ができます。
そして、彼は見返りなど求めず、与え続けています。
その真実の愛を、愛するが故の慈悲を、我々は至福をともなって味わう事が出来るのです。

誤った価値観、つまらない欲望からの行為、それを起こす思考、それは自我の「わたし意識」が起こす倒錯であり、そのような偏見はもう終わりにすべきです。

既に与えられているし、これからも与え続けられます。
自我を手放し、与えている源泉に向き合う事です。

それを信頼し、委ね、与えられるものを受け入れるべきです。

引き寄せの法則を信じ込み、さ迷う人は大勢いるようです。
今こそ、引き寄せの法則から、与えられる法則に移行しましょう。

引き寄せようとせずとも、戦わなくても、頑張らなくても、源泉は与えてくれるのです。

それで満足すべきです。
足りているのですから。

そのような受け身では、進歩も発展性も無いとおっしゃる方は、頑張る事も、努力する事も、得ようとする事も間違いなんかではありません。
そのように運ばれて、自分の学びとなり、また、他の学びへの助けにもなって行くでしょう。

(手放せないエゴのゆえに、悲しい戦争があり、尊い命がそのために終わって行く事も、用意された学びの為の出来事です。
間違っていると神を非難してはいけません。戦争があれば、そこに必ず平和を尊ぶ学びが現れるのですから。それがない事には、平和の尊さなど忘れ去られるかも知れません)

思考から、自我から、思い込みから、根拠のない価値観から、勝手な意味づけから、自他の断定から、自由になるべきです。

運ばれるまま、運ばれて、置かれるまま、そこで学ぶのです。

生きる事が、苦だろうが楽だろうが、そのまま楽しめる人生、それこそが人が目指したい人生ではないでしょうか。

 

 

2013-09-19

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。