わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】「わたしが在る事の不思議」

「わたしが在る。
この疑いようもない在るという事実が、どうしてあり得るのでしょう」

つまり、自分はなぜ存在しているのだろうか?という疑問です。
その意味や目的の事を言っているのではありません。
存在そのもの、在る事の不思議を言っているのです。

この事を、論理を超えて知る事ができるでしょうか。

あなたが在る、この不思議を。
あなたは知る必要があるのです。

もちろん必要を感じられないのであれば、どうでもいい事ではあるのです。

しかし人は、ふと、この疑問に向き合う事があります。

あなたが在る。
無くても、別段不思議な事ではない。
にも関わらず、あなたは在る。

あなたは真実在るのです。

どうでしょうか?
このどうでもいいようなテーマを、まあ暇つぶしにでも、追求してみるのも面白いじゃないですか。

それは過去のいつかの時点で、いきなり現れたのでしょうか?
親から生まれた・・・と言う人は、それを信じていればいい。
それはそれで幸せな事に違いない。

しかし、「わたしが在る」という超現実に向き合う人には、そんな答えには満足できないはずです。

自分が在る、この事への真実の答えを探って欲しいのです。

在るけれど、しかし無くても不思議な事ではないはずです。
それなのに、自分は在る。

この事から、神に気づけるでしょうか?

一気に神を確信できるでしょうか?
そう、一気にそこに意識を溶け込ませる事ができるでしょうか?

神が在るから、あなたは在る。

あなたが在るという事が、神が在ることの証しなのです。

この事に気づけるでしょうか?

この事で、閃光のように、意識のシフトが起こるでしょうか。

そして、あなたが在るというその事で、最初というものなど無かったという真実に辿り着けるでしょうか?

最初が無いから終わりも無い、つまり、歴史的時間的幻に気づけるでしょうか?

あなたはそのもの(神)そこから、初めも無く終わりも無く、何処にも行く事も、行った事も無く、今も、過去(幻)にも、そこに在る事に気づけるでしょうか?

いつだって不二一体で在る事に気づけるでしょうか?

過去の記憶による思考を使わず、あなたの感性と洞察で、それに辿り着けるでしょうか?

「わたしが在る事へのなぜ」

その答えを、あなたの感性は受け入れるでしょうか?

神は在る。

あなたは在る。

しかしあなたは、そこで、自我という小さな世界に宇宙と日常を夢見ていて、そこに暮している。

あなたが無くても、他の誰かは在り、世界も在るかも知れない。
しかし、それをどうやって、無いあなたが認識できるでしょうか。

全てあなたの中で起きている事に気づけるでしょうか。

あなたが在る事により、世界が現れている。

あなたは神の中に在る事に気づけるでしょうか?

あなたは、疑問に思うかも知れない。
自分が亡き後、自分は何処へ行き、どうなってしまうのだろうと。

何処にも行きはせず、いつだってここに在ります。
あなたが世界という、現れてはすぐに消え、瞬間また現れ消える、変わり続ける世界の夢を、それを現す事を続けるか止めるかだけです。

あなたが世界という夢を見ていようが、見るのを止めようが、あなたはここに在ります。
ここに在るあなたが、真我です。

それは最初とか終わりとか、区切られようもなく今です。
また、今という表現も適用できない程「在る」です。

次元の基は、「在る」です。
次元の終端は、0次元(無)です。
「在る」から遠い程、細分化され限定された欠片(かけら)です。
面の欠片は線であり、線の欠片は点(1次元)であり、点は無となり、そのような夢が瞬間、次の1タイム1空間の夢に置き換えられます。

それらは実在ではなく、認識という働きが楽しんでいるだけです。(リーラ)

マーヤ(幻想的錯覚)を起こす力による作用です。

いつだって、あなたは在るそれだけです。
神が自らの内にあるあなたに、その認識作用を及ばせています。

(わたしが言う神は、宗教的神とは違う、つまり神々のそれではありません。神々というのは別の言い方では諸天善神、法則や定めをけん引するキャリアでもあり、そのものでもある神の事でしょうが、それの事を言っているのではありません)

認識するためには、認識する者が置かれなければ、認識が行われません。
それで、認識する者「わたし」と認識される対象「わたし以外」の二元分離を夢見るのです。

夢見ようが見まいが、あなたは在るです。
いつだって、それです。
神(絶対一元)にあなたは在り、あなたはそれで満ちています。

気づけば、それは純粋な愛であり、それ以外ではありません。
あなたがひと度、この愛に浸るなら、全てを投げ出してもそれに留まりたいはずです。

それはまるで、エンドルフィンの大海に寛ぐような、無執着の安らぎ、喜び、至福であり、解放であり、許しであり、救いです。

「わたしが在る」、この事から、そこまで行けるでしょうか?

全てがただ、認識しているに過ぎない事に気づけるでしょうか?

それが認識する者によって、認識されているに過ぎない事に気づけるでしょうか?

「あなたが在る事が、神が在る事を証明している。」
意識のどこか、隠れている部分が、小さく動くでしょうか。
この見逃しがちな、小さな意識のひっかかりに、焦点を合わせられるでしょうか。
そして、閃光のような気づきと共に、そこ、神の意識の中に行けるでしょうか。

何もする事の無い、休日の、心が落ち着いている時にでも、探ってみてください。

 

 

2013-10-14

 

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