わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】伝えてあげられない悔しさは、寂しさでもあります

どうすれば伝えられるでしょう。
この自由な在り方、生き方を。

何にも捉われない、拘らない、自己を手放し、完全に受け入れる、この自由な生き方を。
この楽な生き方を、解放された喜びを、どうすれば伝えられるでしょう。

内側から浄化されていく、この感覚を。
わたしは伝える事ができるでしょうか。

自己感覚というエゴから離れて、自由な状態に在ってはじめてわかる真実は、どう説明しようがわかってはもらえないかも知れません。

人は死なない。
どのような命も、死ぬ事はない。

この命の大海から湧き出た我々が、命を失う事などあり得ない事を知らされたからには、もはや何に執着する事があるでしょうか。

そもそも必ず死ぬのに生まれてくるというその非合理性に、なぜ気づかないのでしょうか。

命とは意識の活動。
生まれた死んだとは、その活動の中の、作用が及ぼす表層の部分的形態変化に過ぎません。

変化自体に実体はありません。
この変化する世界は、実体ではありません。
生まれた死んだとは、ただそのように、表層意識が思い込んで認識しているに過ぎません。

真実実体、その恒久普遍の存在に気づいたなら、この生まれた死んだの世界は、なんと不思議な事でしょう。

見事に現実として錯覚して生きる、この物語の世界。
この幻の世界のほうが、むしろ奇跡であるように今は思えます。

何も無い白い一枚の幕に、あたかも3D映像が映し出される映画のように。
ほんとうは何も無い、ただの白い幕であるように。
この世界には、何も無いのです。

映し出される世界。

全ては、わたしを通して、あの絶対者が見ている物語。

人の、あるいは他の命の、困難な人生、一生を生き抜き、何が大切であるか、真実がなんであるかを悟るまでの物語を、わたしが絶対的に信頼し、受け入れている神は、楽しんでいるのです。

何も心配いらない。
何も間違ってなどいない。
わかってしまえば、そういうものです。

それを、その人生を体験すべきです。
辛くても、苦しくても、受け入れられるその時が来るまで、体験すべきです。

尊いのは、わかってしまうその悟りよりも、そのプロセスです。
人々の苦しく辛い人生を思うと、涙が溢れてきます。

それは、自分がかつて、苦しく辛い体験を味わったそれを思い出すからではなく、人々がそのご苦労の中に今あるからその苦しさ辛さがわかるからでもなく、その尊い苦しさ辛さを体験しているその人の、その尊さを思うからです。

人の尊さを思うからです。

まさに人は仏です。
生きているとか、死んだとか、仏とは関係ありません。

全ての一人一人が、まさに仏です。

悟ったからとか、覚醒したとか関係なく、あらゆる人が、尊い仏なのだと、今はこんなにも強くわかっています。

しかし、このような事を言っても、誰もわからないだろうという虚しく寂しい思いも湧いて来ます。
実際、わかるまでは、このような事はわかりません。

誰に向かって、何を言おうが、わかってはもらえない。

これは、この空しさはどうしたものか。

わからない人同士が、互いに持論を押し付け合い、互いに相容れない不毛な論争と同じく、たとえわかった者が何を言おうが、わからない人には理解し難いのであれば、どちらも同じです。

出来る事はと言えば、ただ応援するだけです。
声も出さずに。

このなんとも言えない、はがゆさ、寂しさが、わかるでしょうか。

井戸に落ちた人々の中から、神によって救い上げられたとしても、上からロープを垂らそうにもそのロープが無いのです。
同じように、神に救い上げられるのを待つしかない、このもどかしさがわかるでしょうか。

しかし、その井戸の中が尊い人生なのです。
体験する事、その事が尊いのです。

神は見捨てない。
どのような人も。
決して、見捨てたりしない。

体験する事で、神は必ず恩寵を与えてくれます。
それだから体験は、人生は尊いのです。

強いエゴを、その強靭な剣を鞘に納めなければいけません。
エゴを観る事によって、エゴを観る者の立場に居なければいけません。
同時に、観る者の立場に居る事にも気づいていなければいけません。

神はすぐここに存在します。
生きている者も、死んだ者も、誰であれ、ここに存在します。

みんな、ここに居るんです。

ここです。

それでも、ここを説明できないし、説明してもわかってもらえないでしょう。

それであるから、言うのです。
そこへは誰も連れて行ってくれません。
あなた自身の中の、気づきによるしかないという事です。

わたしは。

井戸の底まで届くロープが欲しい。

 

2013-10-25

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。