わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】新しく生まれる事

神を悟る事、または現実世界が現れる絶対根源を、観念ではなく真実悟る事は、宗教とは関係なく起こるのではないでしょうか。

それは、悟れるときには悟ってしまう、それだけの事です。

悟るために何かをしようとしても、そもそも悟ろうとするその事が、悟りを遠ざけているのです。

悟ろうとしなくても、悟らされてしまうのです。

それはそうなるときは、どうしたって与えられてしまうのです。

手に入れるものではなく、与えらえるものなのです。

そうであるのに、人は宗教に依存し、宗教の教義、修行、そのような事で得ようとします。
宗教に悟りはあるでしょうか。
救いはあるでしょうか。

信仰、信じて仰ぐ、それで救いはあるのでしょうか。

それは、ただ、すり替えをしているだけではないでしょうか。

信仰によって、いつかは救われると思い込むのは、たしかに現状の苦しみ、辛さに、幾何かの慰めにはなるかも知れません。
そうであっても、それでいいのでしょうか。

その苦しみ、その辛さの、根本は打破されてはいないのに。

人が真実救いを得られるには、どうすればいいのでしょうか。

あなたの悲しみが、あたかも霧が晴れて行くように、光明で満たされるにはどうしたらいいのでしょうか。

あなたの心の持ち物を、精査する事です。

あなたを利己的にしている、それらを見破る事です。

それらは、あなたを悲しみに縛り付けているだけでなく、他者をも悲しみに追いやってしまうのです。

真実、自己を前に置かず、他者を思いやる事が出来るでしょうか。
充分余るほど足りているのに、欲深な者ではないでしょうか。
認められたい、褒め讃えられたいという虚栄はないでしょうか。
あなたを思いやる人、行為に、心底から感謝をする事が出来るでしょうか。
他者を支配する権力を欲してはいないでしょうか。
人生を悪ふざけで生きてはいないでしょうか。
他者を蔑視する者ではないでしょうか。
他者にも自分にも嘘をついて恥じない者ではないでしょうか。
権力に媚を売る事はないでしょうか。
弱者をかばってやれるでしょうか。

あなたの心の持ち物が、あなたの課題です。

あなたはそのような者ではなく、余計なものを持っているだけなのです。
それを捨てる事がまず必要です。

宗教は、それが出来るでしょうか。
そのような心の持ち物を抱えたまま、依存、執着によって、それは成るでしょうか。

清らかな、真っ直ぐな者になるなら、悟りは、救いは、向こうからやってきます。

修行も、儀式も、作法も、祭壇も、ぶつぶつ唱える事も、その役には立たないのではないでしょうか。
道具を叩いて音を出し続ける事も、小さな丸い物を指で繰り出す事も、手指で何か形を表わす事も、木片を火に投げ入れる事も、何か書いた紙を貼り付ける事も、縦横の形に礼拝しても、それはシンボルにすがっているだけではないでしょうか。

仏陀やイエスがそれを見て、褒めてくれるでしょうか。

悟りや救いは、集団的催眠によっては得られません。
その気になっただけの事は、すぐにその気から解かれてしまいます。

霊的施術で病気が治ったつもりの人は、遅くなく病気である事に気づいてしまいます。

それぞれに起こる事、みんなに起こる事、それらどれをとっても、どの命にも整合された必然で結ばれているのです。
人のどのようなプランも、それを変える事はできません。

しかし、あなたの意味づけは、あなたによって変えられるのです。

間違った意味づけ、その迷妄に陥らせている、あなたの心の持ち物を放棄しさえすれば、あなたはそこから新しく生まれる事ができるのです。

新しく生まれた者には、新しい世界が、この「今」に現れます。

清らかな、真っ直ぐな者に与えられる世界は、神の世界です。

誰であろうと、新しく生まれるのでなければ、神の世界には入れません。

あなたが神を悟るのではなく、神があなたを見つけてくれるのです。

その通路に、余計な持ち物を置いたままにしてはいけないのです。

人生とは、余計な持ち物を作り出し、それに苦悩し、それが余計である事に気づき、それを掃除して帰る、一連の物語なのではないでしょうか。



2013-11-08 

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。