わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】間違っている事さえ間違っていない・容認的理解

 人に優劣などありません。
ほんとうは皆、おなじ可能性、同じ能力、表現力、実現力、同じだけの力、同じだけの量を内在しているのだけれど、今の、その形(人生)を受け入れて、その役柄(個性)を受け入れて、何を体験するか、何を学ぶのか、自分の課題(学ぶべき事)として生まれ来たのです。
その役柄の主人公として、体験して、その課題について明らかに知って行く事が大切なのではないでしょうか。

明らかに知るまで、さまざまな間違った解釈、理解を、他の人や社会との関わりから拾い上げ、あるいは作り出して行く事でしょう。

そうする事で矛盾や葛藤、苦悩を味わいます。
それらは、真に間違いのない解釈や理解に繋げるためには、どうしても避けて通れないのではないでしょうか。

なぜなら、間違った解釈による葛藤、苦悩がない事には、ルートとして間違いのない解釈に辿り着けないし、間違いのない解釈に辿り着いた事さえ精査できず、確信を得る事が出来ないからです。

ですから、どんな今のあなたであっても、それは間違ってはおらず、間違った解釈や理解を持っていても、それは正しく間違っているのだと言う事です。

「今は正しく間違っている。」

この事がわかるでしょうか。

正しく間違っていない解釈、理解に辿り着くまでの、正しく間違った解釈、理解によって生まれる葛藤、苦悩が、それは大切な体験であって、その体験無くして正しく間違っていない解釈、理解に辿り着いたときの尊い喜びを味わう事ができるでしょうか。

それによって尊い喜びを味わえるなら、正しく間違った解釈、理解によって生まれる葛藤、苦悩を味わうその味わいさえも、尊い味わいなのです。

(この言い廻しに着いて来れない人には申し訳ございません)

そのように言ってしまうと、神は個々の思い違いや思い込み、思考、選択さえ完全に制御しており、我々はただ踊らされているだけだと受け取ってしまうかも知れません。

そうではなく、正しくても誤りでも、全ては許されているという事です。
それらについて、裁く事もせず、罰を適用する事もありません。

事象は起こるように起こって行くのだけれど、それをどう受け止め、何を意味づけ、どう解釈するかは、個々に許されているという事です。

しかし、個々の解釈が、起こるはずの事象をねじ曲げてしまわぬように、そこでは必然としてコントロールが入るのだと思うのです。

例えば、仏陀が余りにも弟子たちや、衆生、この世の環境を愛するが故に、涅槃を前に口走った事。

「完全に悟りを得、完成された如来は、今少し命を存えようと思うなら、それが出来るのだ」と、弟子アーナンダの返す言葉に少しばかりの期待を寄せたのだけれど、アーナンダは、神の必然に逆らう事が出来ず、呆けさせられていて「我らの為に今しばらく生きながらえてください」とは答えられなかった事のように。

起こる事は起こり、それはどうしても起こってしまう。

それは悪い事でも善い事でもある訳ではない。

ただ、それぞれが、自分の価値観、意味づけの拠り所、つまり自分の都合、その利己にどうであるかでジャッジしているに過ぎないのです。

それで正しい見解、誤った見解、それらが交錯する中で、苦楽を味わっていくのであって、事象、物語のあらすじは、悪い事でも善い事でもどちらでもないのです。

仏教では、悪い事をするから、次の輪廻は悪い世界に転生し苦しむような教えをしていますが、それは作者不明です。
言ったら、恐喝的矯正論です。

楽な人生は楽で楽しいかも知れませんが、そこに悟りのきっかけは、なかなか見つかりません。
彼等は、苦しみにあえぐ人々の、真の苦悩など知らないのです。
楽でしょうがないから、神を悟る必要さえないように暮らしています。
それは、善人として前世を生きたから、その環境が与えられた訳ではありません。
悟りに縁遠い人程、そのような楽な世界に転生するのです。
いわば、初心者向けのトライアルな人生です。

今や、悟りに近づいた人に現れる今生は、まさしく苦悩に満ちた、最終段階のステージなのかも知れないのです。

生まれて三日で死んでいく子がいて、
その親は、その子の故に、悲しみ苦しみの末にいつかは、尊い学びを得て行きます。
周囲の人々も、共に何かしらを学びます。
親が苦悩や悲しみから、学ぶ大切なものがあるから、その子はその役目を担いました。
そうであるから、その子の三日は、人の一生分の価値より重いのです。

社会は、世界は、そのように関与し、関与されながらの組み立てです。

先天性で運動機能、言語機能に障害のある子が生まれたとして、多くの親は人目に晒すのを恐れ、家の中で隠し通したがるものです。

しかし、わたしは目撃しました。
あの母親は、毎朝定時に、多くの人が通勤通学のために行きかう路上に出て、車椅子の我子の手を足を動かし、励まし、体操、訓練させて、わざと人前に晒し、人との関わりを体験させていたのです。

憐れみに満ちた顔で、見ないふりをして通り過ぎる人、笑顔で励ます人、頭を下げて挨拶して行く人、様々です。

わたしは、その母親に、菩薩の姿を見てしまいました。
障害があっても、それがなぜ悪いのでしょうか。
なぜ負い目なのでしょうか。
悪いと決めつけて隠して人と遮断させるよりも、積極的に人と関わらせ、人を恐れず全く健常者と同じ立場で対等に生きていける子に育てようとしたのでしょう。

その子は人を学び、人はその子の故に、何かしらを学ばされます。
その母親は、その子は、きっと人々の、気づきの一端を解かせたに違いないのです。

母親と、その子の楽しそうな笑顔が、思い出されます。
その笑顔が、わたしの神を喜ばせたのは言うまでもありません。
きっと多くの人がそうであったに違いないのです。
この親子に幸あれと、そう思ったに違いないのです。

楽な人生も結構です。
間違いなどではありません。
しかし、学び多い人生とは、決して楽なものではなく、そこそこ苦しみの多い人生なのだと思うのです。

それだから、苦悩を抱えて生きている人は、きっとあと、もう少しで、偉大なる気づきに入るかも知れない、それだから今その苦悩に学ぶのがいいのですと、言いたくなってしまうのです。

しかしながら、わたしが言おうが言うまいが、導かれるときは導かれてしまうでしょう。
学んでしまうでしょう。

わたしなどが言う事は、どれも、言わないでもそうなって行くのであるから、言わないでもいい事なのでしょう。

どうしたって、みんな、運ばれていくのですから。

 

 

2013-11-14

 

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