わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】天使とか悪魔とか

誰か見た事があるでしょうか。

天使とういうのは、男性格だそうです。
そうであるなら、悪魔も男性でしょう。
ルシエルは、天使なのですから。

まあ、そういう神話のような事は、脇に置いて考えてみるのです。

そのような、及ぼす作用を、我々はいつの間にか人格化して捉える癖がついてしまってはないでしょうか。
極端な話、神さえ人間の形として考えたり描かれたり、自由勝手な想像力を働かせてしまいます。

見た事がある記憶の何かかにかを、引っ張り出してきて、神はこうだ、天使はこうだ、悪魔はこうだと、表現したがる人が確かにいて、でもそれは表現しかねる事を、表現してしまうのであれば、偽りでしかない訳です。

ところが、それが知識として流通してしまいます。
人は信じ易い。
つまり、騙されるのが普通です。

特に解釈し難い対象については、尚更です。

そういう、人の脆弱性につけ込んで、余計な恐怖感を植えつけ、あるいは煽る事で、何かしらの企てを成功させようとしている、それこそ悪魔(のような人)が居たりするのです。
そういう被害に逢われた方が、もう数えきれない程いらっしゃる訳です。

だから、何も信じてはいけない、と言うのです。

およそ、人の思考で思いついたもの、宗教も何も、信じる事の、理解への弊害を、わからなくてはいけません。

もちろん、わたしの言う事も信じてはいけません。

なんであれ、信じる事より、わかる事が必要です。
まず何より、あなた自身をわかる必要があるのです。

この宇宙の、この世界の、何一つであれ、あなたのものはありません。
しかしながら、ありとあらゆる全てが、あなたのものです。

なぜなら、全てあなたの中での、その意識の中での現れだからです。

世界も宇宙も、あなたの中に現れていて、あなたが世界の中に現れたのではありません。

あなたの中に、二元世界(相対の世界)が展開されているのです。

二元で表現された、つまり物質レベルの何もかもが、その作用も力も、あなたの中で起こっている事です。

それなのに、人の自我意識は、その二元の一方だけに偏りたがります。
一方の極だけを捉えがちです。

磁石の端っこに、鉄粉がどっさり吸い寄せられれば、そこだけに興味が集中して、その他の部分をどうでもいいものとしてしまうように。

善と悪、裏と表、天使と悪魔、悪霊と護霊、戦争と平和、苦と楽、どれもこれも、エゴが意味づけした偏りに過ぎません。

白い紙を示されて、どちらが表か裏か言い切れるでしょうか。
それはどっちだっていいのではないでしょうか。
また、裏と表しかないのではなく、その中間もあって、それで白い紙がそこにあるのではないでしょうか。

二元のそれぞれの極に名前を付けるのはいいのですが、そもそも名前を付けられるものに実体などありません。

天使も悪魔も、人の意識に内在された素因である事を知るべきです。
二元比較によって、より天使に近い人、悪魔に近い人、そういう表現を及ぼす素因を、人はみな持っているのです。

極に偏り、より天使が善だと断定するから、悪魔が際立って、忌み嫌う感情を生み出しているのです。

そういうトリックに引っかかって、自分自身を知る事を忘れ去った人々に、仏陀が言うのです。

「中道でありなさい。」

みんな、天使も悪魔も持っているのです。
それで、普通です。

悪魔祓いは、あるいは悪霊祓いは、お話です。
ネタです。
祓うのではなく、諭せるかどうか、悟せるかどうか、が問題です。

悪魔が諭されるのではなく、人のエゴが諭されなければならないのです。

人の心の葛藤、つまり、恐怖や希望やらと、思考想念とを結び付けて、在りもしない天使や悪魔を創造しているのです。
何故かならば、自分を擁護するためです。
彼等のせいにすることで、逃れようとするエゴがそこにあるのです。

天使がどうの、悪魔がどうの、という人の言葉に警戒してください。
全てあなたに関わる事は、あなたと神との間に約束された、間違いのないものであり、恐怖も心配も要らなく、最初から救われています。

わたしは、悪魔とも天使とも友達です。
いい奴らで、わたしは分け隔てなく愛しています。
悪魔も天使も、共に神の召使いとして、我々の中に要素として置かれています。
それらによって、教えられる事は多く、人の成長にどんなに役に立っているか計り知れません。

より悪魔的であったり、天使的であったり、そのスケールのどこかに誰もが価値観を置いているだけの事です。

極に寄らず、中間のどこでも、自分のあるがまま、自分らしくあればいいだけです。

中道とは、完璧な中点を要求しているのではなく、偏る事の苦悩、つまり執着や貪りによる陥った状態から抜け出すための教えであり、その中道に無ければ、全てを見通す事が不可能である事がわかると思います。

中道に無ければ、つまり、悟りさえ夢物語でしかなくなるのです。

善と悪、裏と表、天使と悪魔、悪霊と護霊、戦争と平和、苦と楽、どれも偏った見方が作り出す、意味づけに他なりません。

何も知らなかった昔のわたしも、不可解なるもの、悪魔や亡霊や何か得体の知れないものに対する恐怖を持っていました。
しかし、今は何も恐れるものはありません。
どうなるかわからない先の事、未来に恐怖する事もありません。

起こる事、現れる事は、全てみこころであり、わたしに与えられたもの、神の愛の故に、与えられているのです。
それら一切に、わたしにとって不都合なものなどありはしません。

受け入れられるのです。
死さえ、わかってしまえば抵抗なく受け入れられるのです。

偏らず、あるがままを見通す。

それではじめて、自分の中で宇宙が、世界の出来事が、現れ、変化し、変化前が変化後に次々消え去る幻、つまり二元に実体が無い事に気づくかと思います。

ほんとうのあなたの実体は
二元にはなく、一元のその中にいつだって在るのです。
二元に現れるものに、恐れを抱く必要はありません。

あなたは、

神とかけ離れてはいないのです!

 

 

2013-11-22

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。