わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】体験したいからというより、必要な事が与えられるのです

Eさんからの質問です。


実は私には逃げ癖があり、しんどいことから逃げていることが多いと最近になって気づきました。
嫌なことから逃げ、困ったから逆転のために恩寵、悟りが欲しかった。
これまでにいろいろなことから逃げ回っているうちに人生、追い込まれてしまいました。
生まれて初めての意識にのぼる苦悩が、もうやり直しのきかない自分の人生に気づいたことでした。
なので最近まで過去を振り返り後悔ばかりしていました。
初めて後悔というものを知った感覚です。
後悔は止まりましたが、今は未来が不安で不安で気力まで弱ってる感じです。
この私の経験もやはり、ただ体験したいために起こったことなのですか?



ほとんどの人が、過去の罪や、惨めな自分の記憶、失敗や汚点の故に、あるいは今苦悩に陥っていて、この人生を最初からやり直したい、せめてあの時点からでもやり直せたら、と思っているのかも知れません。

例えば、働きもせず家で酒浸りの夫に、「なんでこんなのと一緒に生活してるんだろう、昔好きだった彼と結ばれていたらこんな事には」、と泣いて暮らしている奥さんもいるかも知れません。

ある事で大恥をかいて、そこから人生が転落して、世の中を恨む人になったという人がいるかも知れません。

自分は失敗した。

そのように、思うのです。

しかし、起こってしまった事は、もう終わっていて後戻りはできないし、起こってしまった事は、起こるはずの事であるから回避できないのです。

どんな有名な占い師や霊能者が未来を予測できたとして、起こるはずのとおりに起こって行きます。
また、その回避法を伝授されたとして、そのとおりに回避法を使ったのであれば、回避法を教えられ、それを信じてそのとおりに行動するという事が起こるはずの事であり、結局当初の未来予測ははずれた、という事になるのです。

つまり、未来予測が的中するためには、教えられた回避法は使われるはずのものでは無く、それを使う事無く予測の通りに起こる事が起こらなければなりません。

つまり、未来予測は的中しようがしまいが、起こるはずの事が起こって行くだけであり、未来予測そのものが無意味であるという事です。

さて、起こった事は事実、起こって欲しくない事だったかもしれません。
しかし事実は表面的な現象に過ぎません。
それが起こるべく起こったという不可避な意味、つまり現実と並走する真実がそこにあるのです。

不可避な意味である真実があるから、起こるべくして起こる現実が現れるのです。

その真実を知らぬが故に、人は現実に苦悩するのではないでしょうか。

つまり、どのような事にも、それなりの意味がある、という事です。

それがわからないから、自分の都合で意味づけた理想と合致しないために苦悩するのです。
自分の価値観、尺度、それも本当にわかる事無く成長過程で誰かから押し付けられ、刷り込まれ、信じたその価値観、尺度の為に、表面的現実に苦悩するのです。

しかし更に、その苦悩そのものにも大きな意味があるのです。
つまりそのように価値観を刷り込まれる事にすら意味があるのです。

苦悩があるから、それから救われたいという思いが現れます。
苦悩の無い者に、救われるべき何かがある訳ではありません。

苦悩があるから、真実、真理を知りたいという衝動が現れます。
苦悩の無い者に、真実は意味を持たず、どうでもいい事です。

しかし同時に、苦悩はそれ自体からの逃避に走らせます。

逃避は楽への執着であり、苦悩の否定であり、逃避そのものが苦悩を維持する動力となります。
楽になりたい、楽になりたい、と思い続けるから、苦悩を際立たせ、苦悩から逃れられず、いつまでも苦悩し続ける。

なぜ苦悩するのだろう・・・その問題提起に、向き合うか向き合わないか、直視するか逃げるか。
その選択が苦悩それ自体の意味、真実の成就に至るかどうかの分岐となるでしょう。

人を悟りに導くのは、苦悩です。
そうでなければ、苦悩も悟りも必要ないのです。

逃避する事無く、真実を知るために苦悩に向き合う。
起こる事、起こった事の、真実の意味を知るために、それと向き合う。

そのとき、その苦悩は自分が勝手な都合で意味づけた、価値観、尺度による理想と矛盾していただけなのではないだろうかと気づくのです。

そして、そのような苦悩があったからこそ、真実、真理を知りたい、悟りたいという衝動が起こったのだと言う事に気づくのです。

Eさんの言うような、逆転の為の恩寵、悟り、そのようなものはありません。
未来に不安を想うのは、過去の苦しみを今も抱き続けているからです。

全て起こるはずの事が起こっていたのであり、それは必要だから与えられた事であり、主人公の物語には無くてはならない重要な出来事なのです。

自分の都合、価値観、それがそれらを受け入れられなかったから、葛藤が起こっていただけなのです。
そのエゴの故に、起こる事、起こった事と戦い続けていたのです。

自分の為に、神が、与えてくださいました。

そのようには理解できないでしょうか。

自分に必要な体験、出来事が与えられたのだと、受け入れられるなら、もはや苦悩は消え去ります。
それは戦いを放棄するという事です。

受け入れる事が放棄する事です。
放棄するから、あるがままなのです。

そうであるなら、神の尊い意思が、みこころがわかるはずです。

現れる現象も、自分の「わたし」というエゴも、それはホログラムでしかありません。
全ては、真実の自分、その実体から現れ来る幻です。

人生という物語は、楽しみを楽しむ、苦悩を楽しむ、悲愴を楽しむ、そのようなとても面白いものではないでしょうか。

わかったなら、もう未来に不安を抱く事はありません。
恐怖する何もありません。

全て与えられる事が与えられているに過ぎません。

全て自分の中で、真実の自分が現しているに過ぎません。

それらは無いのに、現れるのです。

しかも、必要だから与えられたのです。

有難く、受け入れるのです。

未来はどうだって、与えられるはずの事が与えられるだけです。

あるがまま、受け入れるなら、それはもう、苦ではありません。
むしろ、楽しみでさえあります。

なぜなら、その究極には、神の中に住む、その事が在るだけなのですから。
神の中に帰る、その事が在るだけなのですから。

 

 2014-02-04

 

 

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