わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】チャンスを待つ? 今でも同じですよ

質問を頂きました。
何度もトライして頂いたようですが、FC2の方ですべて迷惑フォルダに島流しにしていたようです。
文字コードのせいかも知れません。メモ帳保存時にご確認ください。


花岡さん、初めまして。Nと申します。
花岡さんの貴重な御言葉をありがたく読ませて頂いております。そこで質問がございます。 
私(僕)も清らかになって真我に目覚めたいと思っておりますが花岡さんがおっしゃられる「死ぬことが悟りではない」ということは、もし私が今生では悟れず死ぬ時には、悟りに至る究極の苦しみを味わわずに死ねて来世以降にチャンスが持ち越されるということでしょうか。 
いつか来る究極の苦しみを思うと恐ろしさを感じますが、それを楽しみに生きているような気もいたします。



チャンスがいつか来る、あるいは「持ち越される」という考え方は、そうだとしても重要ではありません。
我々はいつだって、チャンスの中に生きていると思うのです。
つまり、今でもいい、という事です。

苦悩は道具です。
そうなるのに、苦悩という道具が不可欠だという事ではありません。
その人にはその人の、別の道具がある場合もあるのではないでしょうか。

問題はチャンスではなく、その時、その瞬間、必要かどうか?という事ではないでしょうか。
今強く必要性を感じられるなら、今でもいいし、それはできるのです。
またその必要性は、以前から感じていて、それによって見出そうとしている故の到達ではなく、不意にやって来る何か、その瞬間に臨界に達する抗いようの無い必要性のような気がします。

その不可避な必要性が現れた瞬間に、エゴを放棄できるか、完全真実なる「それ」(わたしの場合は逆らえない神でした)に、明け渡せるかどうかなのであって、つまり、それは苦脳でなくても構わないのです。

逆に言えば、どのような苦悩に今陥っていようが、エゴを放棄して純粋なる真実「それ(神)」に明け渡そうとしないのであれば、苦悩の味わい損になってしまう訳です。

この必要性がエゴに依る必要性か、つまり何かしらの期待をもっているのではなく、エゴに依らず内なる衝動から起こる必要性、つまり、「エゴ」とか「わたし」とかが、消滅してもそれでもよく、それに依る期待などなく、純粋なる真実(神)に完全に任せるという境地に落ちてしまえるかどうかなのであって、そうであるならば、それは巡ってくるチャンスであってもいいし、この今この瞬間でもいいのです。

巡ってくるとか、そんな事はどうでもいいのです。
今やれば、今できてしまう。
そういう事です。

ですから、わたしはどうすればいいのかを、過去の記事でも何度となく同じ事を繰り返して記載しています。

エゴに依らない必要性を感じられるように、自ら純粋な者でいなさい。
神を知らなくても、仮想でもいい。
まず、神が在る事を前提としていなければなりません。
神が在って、それだから世界も身体も「わたし」も在る事ができるのだという事をまずわかってください。
言われたからそうなのだろう・・・ではなく、しっかりと洞察して、揺るぎ無い確信を得なさい。
すべて「それ」に依るのだから、それに任せなさい。
その事を、今、わかる必要があるのだと、内側に念じなさい。
そして、自分の命に縋る(すがる)のを、止めなさい。
「それ(神)」が、間違いなく引き受けてくれます。
何も掴まず、未練を残さず、放棄しなさい。
エゴは恐怖をもってエゴに縛り付けようとするとしても、怖くてもいい、それでいいと思いなさい。
エゴがあっても、それから自由になりなさい。
エゴはエゴに任せ、あなたは神に任せなさい。

言っているのは、これだけの事です。

この事がわかるでしょうか。

無いはずのものが、目に見えているのです。
耳に聞こえているのです。
この不思議を洞察によって、神が無い事には有り得ないのだと、理解できなければいけません。

まず神が在る事を、前提にできなければならないのです。

幸運にもわたしは、神が在る事を、かなり以前から前提にしていました。
しかしわたしは、それ以上の必要性を感じていませんでした。
悟りとか、そんなものはどうでもいい、世の中にはそういう事もあって、そういう稀有な人もいるのだろう、という感覚でした。
求めてなどいなかったのです。

しかし、解決不可能な苦悩に見舞われ、その時初めて、わたしは必要性を感じたのです。
救えるのは、神以外に無い、それだから、委ねる。
委ねきって、わたしは失うかも知れないものに縋る(すがる)のを止める。
神の中に死に、神の中に生きよう、そのように決意し、そのようにしたのです。
それで、真実が見えてきたのです。

それは求めて得たのではなく、否定も肯定も無くわかってしまっただけです。

そうであるなら、苦悩そのものがそれを起こしたのではなく、任せ切って、失うものに未練せず、神に全てを差し出すという、その事が目覚めに通じているだけなのではないでしょうか。

あるいは、瞑想がその道具になる人もいるかも知れません。
道元のように。
但し、道具というのは人に調度いいものが、きっと用意されていて、万人が同じとは限らないと思うのです。

宗教家や神秘主義者は、求めて瞑想をしているのです。
覚醒や悟りという、甘美な言葉に求めずにはおれずに瞑想しているのではないでしょうか。

そうであるなら糸口さえ見えてきません。

欲のひと欠片も無く、ただ委ね切り、任せ、意識の中を走り切る。
海に突き出た桟橋を、全速力で自転車をこいで走り抜けるように。
ペダルをこぐのを止める事無く、走り抜く。
あの(神)の中に。

その時、思考も言葉も、思いも、何もかも無くなる。
見えるものは見えるに任せ、聞こえるものは聞こえるに任せ。
あなたはただ、神に委ねればいい。

その時、仮想であった神が、仮想という扉を開け放つ。

神が。

わかる。

神がわかる事で、体験したことの無いエクスタシーに、あなたは突入する。

そういう事で目覚める人もいるでしょう。
しかし、あなたに何が調度いいのかは、誰も知らない。

やはり、苦悩が調度いい道具なのかも知れないし、そうでないかも知れない。

あなたの中にしか、それはないのです。

だから、あなたを導く師は、あなたの中に見出しなさいと言っているのです。

巡りくるチャンス、持ち越されたチャンス、そのような事に期待するくらいなら、今、やればいい。

そのように、わたしは言います。

チャンスが巡り来たときも、それは「今」なのですから。

巡りくるチャンスを待つ姿勢は、無い未来に逃げているだけなのですから。

チャンスを待つ姿勢は、その時が来ても、次のチャンスを待つ事になると言う事です。
それが持ち越されるという事で、つまり「持ち越している」のです。

でも、それを神は許してくださいます。

神はそのように

慈悲深く見つめています。

 

 

2014-03-09

 

 

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