わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】恋焦がれているなら逢いに行かないでどうします

人は誰でも悟りから逃れられません。
人生はそのように、自分と他との干渉と反応に依って、其々に導かれるように組み立てられています。
そして、ある時期に見えない壁のようなものに突き当たる日が来るかも知れません。

しかしそれは壁ではなく、壊したり、よじ登って進むものではありません。
進むなら進める。
そういう突き当りです。
つまり、努力や修行なしに、「そうする」ならそうなる、という事です。

あなたが進むなら進めるのに、後ろからそうはさせまいと、引き戻す何かがあるのではないでしょうか。

SSさんから疼きとも焦りともとれるコメントを頂きましたので、紹介します。


「はじめまして。たまたまこちらのブログに辿り着き、なぜかコメントを書きたくなったので、書こうと思いました。
今まで私の人生は苦しい事ばかりで、その苦しさを何とかしたいと精神世界や自己啓発を彷徨ってきました。もう人生それだけでした。
そして、たまたま「誰が構うもんか」というラメッシ・バルセカールさんの本を読んで全てこれで良かったのだ、と思いました。
なぜなら、この人生のお蔭で「私(エゴ)」はボロボロだからです。」



エゴがボロボロになったのを見たのは幸いです。
エゴを観察できる状態が、どうしても不可欠だからです。
観察する者の立場に立ち、エゴも、また観察者自身も観察する必要があるのです。


「全ては「実在」の意志であり、私の意思でやった事なんか一つもない。例えば掃除をする時、「私」が何かを考えていても、身体は自動的に掃除を終わらせてくれます。料理する時も、アタマが考え事をしていても身体は自動的に料理を作ります。
だから、こちらのブログで言われている事は、理解できるのです。
殆ど理解できるのですが…、私には何の体験もありません。至福の経験とか、一体になった経験とか無いのです。
自分は単なる「器」であり世界が現れるための「空間なのだ」と…確かダグラスさんの実験だと思いますが、わかるんです。
だけど知識ばっかりわかっても実感と体験が無いんです。かといって、瞑想すると寝てしまうし、なんか瞑想には意味がないと思うんです。
…しかし、…何かわかりませんが、私は何かがしたいと思うんです。
だけど何がしたいんだかよくわからないんです。」



確かにそれは、日常に知識を適用してみて、間違っていない事を確認しただけで、わかったのではないと思います。
おっしゃるとおり実感が、確かな手応えが必要です。

まず、人の発明したものを全て外す必要があります。
宗教や思考、哲学、作法、序列、あたりまえ、人の意を介入したものは除外する必要があります。

そのうえで、瞑想それ自体を考察してみてください。
日本に於いて瞑想を広めた道元は、確かに彼はそのようにして得るものを得たのかも知れません。
しかし、背筋をまっすぐ、結跏趺坐、壁に向かって、食事や洗い、立居振舞、そのような細かな作法があっては、それはエゴです。
それは道元の勝手な都合です。
わざわざ捉われの要素を集める必要はありません。

自由に、好きな時に、好きな時間、わずか数秒でも、どのような体位であれ、そこに在りたいと思ったら、その時そこで行きなさい。
並木道を散歩していて神を思いたくなったら、そこで行きなさい。
それは、閃光のように、感動として意識に現れるかも知れません。

エゴを観察していて、エゴの立場ではなく観察する者の立場に居る事に気づいたら、そちらに意識の向きを変えて行きなさい。
それは内側に在ります。
瞑想に決まりも作法もメソッドもありません。
あなたがそこに行くだけです。

胸の内部に、それが満ちているのを意識の目を開いて覗きなさい。
意識の目でそれを感覚し、それに溺れなさい。
あなたの身体全部が、それで満ちるのを感覚しなさい。
あなたはそれであり、それは如実であり、それは不可分です。

あなたが、何かを得るためであってはいけません。
望み、希望、期待、そのようなものではなく、そうしたいときにそうしなさい。
あなたがそれに逢いたいときに、そこに行きなさい。
恋焦がれたそれに逢いに行くように、ただ行きなさい。

迷子になった子が、母親を探すように、それに行きなさい。
何の理由もなく、それに行きなさい。
そういう習慣が、辿り着かせてくれます。

それの、その手に抱かれなさい。
その愛に満たされなさい。
それを受け入れ、全てをまかせなさい。

やろうとしてやってはいけません。
やりたいときに、やりなさい。
間近になった者は、一日に何度でもそうしたくなります。
何度でも逢いに行きたくなります。
そうなったら、そうしなさい。

これは修行でも、努力でもありません。
ただ恋焦がれて逢いに行くだけです。
ラーマクリシュナが一日に何度もトランスしたように。
我々も何度でも逢いに行けます。

逢いに行って、その愛を頂きなさい。
それは完全に無条件の、理由の要らない愛です。
その甘い味わいを知りなさい。

それを味わうなら、あなたに溢れてくるのは、ただ感謝だけになるでしょう。
神の実在を確信するに至るでしょう。
全てはそれである事を知るでしょう。
内なる神の故に、外なる全てがそれであり、外なる神さえも知るに至るでしょう。

全てあなたの意識がそれなのです。
あなたはそれであり、あなたが如実なのです。

一日に何度でも、それに逢える事が無くても、恋焦がれていて、逢いに行きなさい。

ただそうするだけです。

そうさせない壁とは、後ろから引き戻すのは、利己的な何かを隠し持っているからです。
欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。

神が愛しいのであれば、エゴさえも愛おしく、許してあげられるでしょう。
エゴを消す必要はありません。
認め許し、それから自由でなければいけません。

瞑想は、目を閉じずに、開けたまま。
そうでなければ、感覚している感覚さえ眠ってしまいます。
その感覚を感じ取らなければいけません。

最初は意識がとても疲れるかも知れません。
それで、次の瞑想は日にちが遠のいてしまうかもしれません。
それでも、自分は怠惰だと思わず、そういう自分を認め許してください。
逢いたい感覚を思い起こすようにしてください。
慣れれば、楽しみにさえなってきます。
神と言う言葉を聞いただけで、その文字を見ただけで、そこに呼ばれるようになります。


「悟りたい」と思うんですが、でも悟ったからとて何なんだと思うんです。だって悟りは「私の死」だから不幸もなければ幸せもない。
悟り…たいと思って頑張ったのに、その終着駅が「私の死」であるなら…。「私」はどうなるのでしょうか。
ここが「私」のハードルなのでしょうか。
もう悟りの本は散々読みまくって疲れました。
だからもう本もブログも読みたくないと思うのに、こうして悟りブログを見つけてしまい、コメントしてしまう。これも神の意志だと思うので、コメントさせて頂きました。長文すみません。



悟りは「私の死」ではなく、「私からの自由」です。
「私」はどうなるのでしょう・・・とても愛おしいものとして、意識に統合されます。

この愛、条件も理由も無い、ただ愛に目覚める事、この如実を確信する事、この甘い至福。
わたしには無理などと、思う必要はありません。

神があなたを想い愛するように、あなたも神を想い愛するだけで、それはそうなります。
そして、毎日それに逢いに行くようになる事でしょう。

ほんとうは全て、素晴らしいものであり、それ以外のものがあるのではありません。

確信は、得られます。

 

 

2014-03-18

 

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