わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】善悪、被害者加害者に関する質問

Gさんからの質問です。


花岡様こんにちは。
悟りとは何か本当の自分とは何かを知りたくて色々な本を読んだり、身近でワンネス体験をした人の話しを聞いたりすると、すべては一つで宇宙は自分で私はあなたであなたは私、すべて完璧で、神=自分(わたし)というところにいつもいきつきます。

世界の素晴らしいもの(きれいな花とか、壮大な自然とか人の優しい心とか)に目を向けた時はそう思えなくもないのですが、ワンネス体験というものをした事がないので、まだ頭の中での理解にすぎない段階なのだと思います。

たとえば虐待や強姦、殺人などのニュースを見た時は、どうしてもそれが完璧な世界で素晴らしいとは思えないのです。悟った人というのは例え自分の親に高温のアイロンを押し当てられても、虐待していただいてありがたいありがたい、強姦されても、ありがたいありがたい。という風に思えるのですか?

この世には被害者も加害者もなく、善も悪もないということをどうしても知りたいのです。悟った人にはそういうことは起こらない、という答えはなしで、世にいう「被害者」という立場になった時にどういう風に生きれば苦痛を消せるのか、という事が知りたいのです。たくさんの覚者ブログ的なものを書いてる方の所へ同じ質問を投稿してみましたが誰一人として答えてはいただけませんでした。
善と悪、被害者と加害者について花岡様のお話しをお聞かせいただけらと思います。よろしくお願いします。



確かに悲惨で醜悪な事件を目の当りにすれば、こんな事があっていいはずなど無いと思う事でしょう。
しかし同時に我々は、世界には美しい自然や人としての温かさがある事も知っています。

なぜ事象は起こるのでしょう。
それは誰に起こるのでしょう。

人に起こった事、地域に起こった事、それがもし、起こってはいけない事であるなら、最初から起こりようがない。
起こるようになっているから、起こってしまう。

それを統制しているのは過去の第一原因から次々引き継がれた原因結果の連鎖ではありません。
それはそうなるように予定された、つまり予め定められた「起こる事」が用意されていて、用意した「意思」があるから起こってしまうのです。

そうでなければ宇宙など、あっけなく激突崩壊をしてしまう事でしょう。
世々、宇宙がそれ自体崩壊も無く運行し続けられるのは、予定された軌跡を、予定されたままに動くからではないでしょうか。
そのように、物事全てが間違いなく運ばれるからではないでしょうか。

それを洞察し、予定を読み取る「星読み」。
今では誰ひとり知る者も無い占星術原始仏教の時代にはあったそうで、どんな事でも広い心で許した仏陀でもそれを行う弟子を見つければ、きつく叱咤し禁止したと言う事です。

予定を知る事が大切なのではなく、現れる事象、人々の意思感情の干渉や応答の営みの中にこそ、知るべき重大な意味があるのだと知っていたからです。

この世界は相対する二つの極と、それに続く中間相互作用で出来ています。

そのように、この世界では、被害者も加害者も、存在しているのです。
善も悪も存在しているのです。

それがもし、あなたに起こった事であるならば、あなたに必要だから用意されたのです。
あなたが知るために、どちらかの極か、その中間のどこかが、あなたのために用意され、起こるはずの事が起こったのです。

起こる事が起こって、それだからあなたは疑問を持ち、知りたくて、ここに問いを持ち込んだのでしょう。
そのような起こる事があなたに起こらないなら、あなたは知りたいなどと思う事はなかったでしょう。

また、悪を知る事が無いのであれば、善を知る必要など何処にあるのでしょう。
人々が悪を為すのは、善の尊さに目覚めるためではないでしょうか。

被害者にならなければ、被害者のほんとうの痛み、悲しみ、苦しみなど、どうして知り得ましょう。
また、加害者にならなければ、加害者の真実の立場など、どうして計れましょうか。

それぞれが、それぞれの立場で、それぞれの知る事を知るために、物事は用意されたのではないでしょうか。

戦争の無い平和な世界を作るのだというのが、シルバーバーチの言い分です。
しかし、そうはなりません。
起こる事は起こってしまい、しかもそれには、相応の、しかも重要な意味があるからです。

しかも戦争のない世界を勝ち取るために戦うという論理の破綻した事を言いだす人々も世界にはいらっしゃいます。
そう言いたくなるのもわからないでもありません。
そう思いたくなるほど、世界はネジ曲がっているようにさえ感じます。

しかし我々は、起こる事象によってしか、現れる世界の意味を、また、人というものを知る事ができないのです。

戦争、あるいは殺戮、そのようなものがある事で、平和のその大切な意味を知るでしょう。
もしも人殺し、暴力がなければ、平和や人の優しさなど、どうやって想う事ができるでしょうか。
そこに平和など必要では無いという事になります。

そのような変動、激動、変化がなかったら、人はなんのために存在して、何を知ればいいのでしょうか。

さて、こころの中の、とてもとても小さな、意地悪。

それはそのまま、戦争の火種でもあるのです。

戦争の中で必死に助けを求める負傷した敵兵を、味方の銃撃からかばってやる、そのような事が平和の希望に繋がるかも知れません。

それだから、人生は体験して味わって、そこから知って行くように運ばれるのです。

起こる事すべてに意味はある。

それだから、確かに加害者も被害者も存在はするけれど、それは加害者でも被害者でもなく、互いが互いの知る事のために用意された体験を間違いなく歩んでいるのだとも言えるのです。

そのような両極の素因を誰もがもっているのです。
相対世界は、そのような組み立てになっているのです。

しかしそれは、「人」という自我の体験であり、それだからどちらか一方の極に立って主張する。
自我という意識の中に、二つの極による相互作用から成る世界が展開されているからそうなります。
一方に立つから、他方を断定するのです。
自分は被害者だ、あいつが加害者だと。
昨日まで加害者だった者が、今日は被害者として相手を裁こうとする。

もしも人が「人」を全く客観視し、起こる事を起こるまま観察するならば、つまり、「人」という自我を離れて完全に観察者の立場に立つならば、そこには見る者としての立場しかなくなります。

二つに分断してどちらかと断定し裁くのは、自我の中に埋もれ、ある時は加害者、ある時は被害者として都合だけを主張する利己的な思考ではないでしょうか。

起こる事は起こるように予定されていて、物事はそれに向かって動いて行く。
そのように予定した「意思」があるのです。
そこに「目的」「意味」があるから、そこへ向かわせる「意思」が働いているのです。

我々はその軌道を、迷っているがごとく歩んでいながらも、それは間違ってなどいない。
どんな事が起こるとも、誰と喧嘩しようとも、どんな被害を被ろうとも、それは、その目的に辿り着くまでの知り行く過程にすぎないのです。

そしてそれは、そのように、後から、結果的にわかることなのです。
最初からわかっているなら、生きる意味など無いのです。

苦楽を体験してこその生きる意味です。
それが「人=自我に翻弄される者」と言うものです。

それだから今は、被害者も加害者も存在し、善も悪も存在すると言えます。
しかし、ほんとうは被害者も加害者も存在せず、善も悪も存在しないと言うのです。

熱いアイロンを押し付けられて「ありがたい」と言うのは、辿り着いてやっとわかる事なのです。

その「意思」の在るに気づき、その「意思」を発動している者、「絶対者」、その「無いはずだけど有る自分」を発動している「それ」がわかった時、はじめてわかる事なのです。

そのアイロンがない事には、辿り着けない、必然の理由があるのです。

それがわかった時の、感涙に、誰もが導かれて行くのです。

それでやっと、絶対者はひとつ、世界は作られた世界、太陽からでる光が太陽無くして有り得ないように、世界はそれ無くして有り得ないと知れるのです。

宇宙の何もかもが一つであり、離れてなどいないと知れるのです。

世界は何も間違っていないと知れるのです。

その救いによって、その解放によって、やっと「ありがたい」と言い切れるのです。
それで人は「人」を卒業できるのです。

物事は最終到達点に向かって、間違いなく進んでいて、それは過去に起因するものではなく、その最終到達点があるが故に進んでいて、過去の原因もそれの故に現れ、ところが我々は原因を恨むが故に、今の現れを受け入れられず苦悩している。

また、今の現れに、理想を掲げるから、受け入れられず苦悩する。

「意思」「みこころ」、それには誰もかなわない。
それは、人のために、絶対者が人を想うが故に起こった事なのです。
絶対者が人を想うそれが、見返りを求めない愛、理由の要らない愛、全てを許す愛です。

それを受け入れて、今の現れを許し、絶対者に任せ切る態度に出るなら、遅くなく、わかって行くでしょう。

今、この起こる事を拒否し、否定し、受け入れないのに、悟りを求めるエゴ。

すべての要求を放棄し、ただ受け入れ、与えられるものだけを頂くなら、「それ」は求めずとも与えてくれるでしょう。

そのような事がわかる「わかるちから」が、我々には内在されているのです。

それを観察者とすればいい。
また、アートマンと呼んでもいい。

内なる「わかるちから」に気づく事から、まず始めるのがいい。
それは、あなたの「知りたい」を、裏切らない。

それは誰にとっても、真実の師、グルでしょう。
目を開けて、この世界を自我に見せたまま、内なるそれに立場を置いて、この世界とその世界との在り位置を確認するとき、あなたはそれで在る事に気づくでしょう。

 

2014-03-28

 

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