わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「賢者が授けるもの」

非公開さんから頂いた質問です。
順番に掲載していたら、とんでもなく遅くなってしまいました。
ごめんなさいね。


> はじめまして、深い言葉をいつも楽しく読ませて頂いております。

以前から気になっているのですが…
私は、パパジやムージの動画が好きで、よく観ています。
それらを観ておりますと、何かを得て笑い出す人たちが結構います。
この方達には、何が起こっているのでしょうか?
一時的な体験なのでしょうか?
目覚めのはじまりなのでしょうか?
完全に目覚めたのでしょうか?

それから、もうひとつ不思議に思うのは、
私の知る限り、サットサンの同じ場所で、同じ話を聞いている周りの人たちが、
何かを得て笑い出すようなことが無いように思われます。
覚者が、直接話をする人に対して、
なにか共鳴(共振?伝染?)のようなことを起こしたりすることが可能なのでしょうか?
それが恩寵と呼ばれるものなのでしょうか?

お忙しいかと思いますが、もし機会がありましたら花岡様のお話をお聞かせください。
公開していただいも結構です。



動画のいくつかを見てみましたが、そのような場面はありましたね。
ですが、実際にその場に居合わせた事も、直接パパジやムージとお話をした事もございませんので、よくわかりません。

わからない事をわかったふりをして語るのもどうかと思いますので、ほんとうはこの質問は辞退致したく思いましたが、せっかく質問頂きましたので、あくまでも推測ですが、たぶんそうではないだろうか?というところを言ってみます。

例えば、小学校の教室。
悪ふざけが過ぎた児童を、先生がたしなめる光景。

先生は正しい事を伝えようと、その子の眼を見て話します。
お説教されてる児童は、自分のした事だから、とりあえず受け止めるでしょう。

そのとき、他にも児童が大勢いるにも関わらず、そこは二人の特別なフィールドになっている事でしょう。

他の児童は、あくまでも観衆であり、自分は関わっていない、つまり当事者の立場ではないと思っているでしょう。
他人事(ひとごと)として見ているのです。

しかし、先生とその子には、1対1の空間。

先生は言葉と意識の多くを、その子のために伝えようとします。
その子は、この場面はバツが悪いと思いながらも、真剣に聞かざるを得ません。

このシチュエーションが、とても大事だと思うのです。

周りに何人居ようが、1対1なのです。

同じパパジの話を聞いていても、周囲の人と、向き合って聞いている人は受け方が違うのでしょう。

その人のために、師は意識を言葉に乗せて、誠意を以て説いているのです。
向き合って聞く人は、自分のために説いてくださる、のであれば、一言も聞き漏らすまいと真剣になるでしょう。

講演会などで話を聞いても、あまりよくわからない場合が多いと思います。
CDとかで聴いてるのと、大差ないほどかも知れません。

師が弟子に伝える時は、1対1でなければならないと思うのです。
それは、どうしても真剣でなければならないからです。
その時、言葉に乗せた意識も受け取れると思うのです。

そうであれば、説かれる話の途中で、それはまるで一瞬の閃きのように、「あっ!そうか」が現れます。
「わかるちから」が働く瞬間があるのです。

あの突然の笑いは、その時の感動やら驚きによる笑いのような気がします。

パパジが、「あなたはどこにいますか?」と言えば、自我とは違う、思考や想念とは違う、それから離れた静寂な場所に気づいてしまう瞬間が現れるのでしょう。

わかっている者が、このわかっている意識を乗せて、言葉を送るから受け取れるのではないでしょうか。

わかっていない者が、同じ事を言っても、たぶん「う~む・・?」となるのではないでしょうか。

確信というパワーの差かもしれません。

意識の輻射、それが1対1の場合、指向性が強くなり、送り手と受け手は意識で繋がりやすいと思われます。

しかし、それはその時何かがわかったとしても、時間が経つにつれ、マーヤにかき消されて行くかも知れません。
あの時のあの感覚は何だったのだろう、みたいになって思い出そうとする程にマーヤの干渉を受けていくでしょう。
なぜなら、自我に住んでいる「わたし」の立場を離れない限り、そこはマーヤでしかないのです。

目覚めたのではなく、揺すられた、状態であり、それが恩寵なのではありません。

共鳴とか共振とか言えるかどうかは、わたしにはわかりません。
そのような言葉を使う方がいらっしゃいますが、わたしには何を言っているのか実はわからないのです。

わたしの見解は、そんな事は全く関係なく、伝えられるし受け取れるのでしょう、と言う事です。
互いの意識の同化、あるいは同一化のような、現象と言いますか作用が働く、言ったら意識同士が握手したような感じです。

恩寵は外の師から与えられるのではなく、内なる師、内なる真我によって、自身の在り方、変容の状態によって受け取れる状態になった時、与えられるものです。

またそれは、欲しいから与えらるのではなく、いらなくても与えられてしまいます。
そしてまた、欲しい人にはどうしても欲しいを捨てない限り、与えられません。

小さな利己的な欠片も残さず、浄化され、純粋な者、真っ直ぐな者、天真な者、許せる者である事が必要です。

また恩寵の喜びは、もっと違うと思います。
喜びと感謝に、ハートが震えて、泣き出さずにはおれなくなるし、笑わずにはおれなくなります。

「ここ」がわかるし、「ここ」にいつでも居たくなります。
身体の事は身体にまかせ、自我の事は自我にまかせ、自分は「ここ」に居る。

身体を失って後も、自分は「ここ」に居る。
ここが在る。
在るここに、いつも居る。

「ここ」に居て、世間を見ると、自我たちの日常、その見え方がまるで違うような感覚です。

それはまるで、違う生き物になったような気さえします。
というか、あらゆる生き物を、人間とか犬とか鳥とか虫とか分けて考える事が無く、自分もそれらも同じように命を生きる生き物として、分け隔てなく思ってしまい、尊敬さえできます。

名前を付けてラベリングするのが、とても不思議な行為に思えるのです。

どんな命達も、愛おしく思えるのです。

恩寵、それはやっぱり、明け渡してしまわない限り、頂く事は出来ないのだと思います。
別に言えば、明け渡しができさえすれば、誰だって恩寵が頂けるのだ、と言う事です。

また、やがてはそうしてしまう場面に、出くわしてしまうでしょう。
そういう流れになっているのでしょう。

だから、結局は、誰だっていつかは真我に帰るのです。

いつかは、です。

でも、確かです。

 

 2014-04-26

 

 

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