わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「怒りについて」

境界性人格障害についての記事を読まれた方からの質問です。


> 花岡さんこんばんは。 
何度か読ませていただいております。いつも愛のあふれたお言葉に心和んでおります。 

また、今回の記事はシンクロする部分が多く、心に響いてきます。 
私も幼少時代からの兄弟の暴力や母の期待やいじめ、父の抑圧を受けて育っており、怒りをコントロールすることができずに、特に生理前は物を棚

に置いて落ちたというような小さなことでも思い通りにならないことに怒りを感じます。 
そしてシンママで子育て中なのですが、子供に腹を立てて傷つけるようなことを大きな声で起こってしまいます。 
その姿はまるで小さいころの兄弟と私が入れ替わったように支配的です。 
何度も見つめてきて、最近は過ぎたことだと兄を赦しているつもりですが、現実は変わりません。。。 

どうかもう少し怒りについてお話をきかせていただけないでしょうか。 
今後も楽しみにしております。 



怒りそのものは、人にとっても他の生き物たちにとっても必要なものです。
これは生きていくために備わっている機能です。
必ずしもいけないものではありません。

人はどうしても生きていくように出来ています。
生きていく事を放棄しないように、命の継承を絶たないために、食欲や性欲などのような基本的欲と、恐怖や怒りなどの防御的心理が備わっている訳です。
恐怖や怒りがない事には、人は簡単に事故に命を落とし、護りたいものを次々に奪われてしまうでしょう。

問題は過度の恐れや怒り。
反応が過敏な人もいる訳です。

恐れから怒りへ、次に暴力へ。
これが、心理的な進行パターンではないでしょうか。

つまり誰でも、奪われる、失う恐れを常に無意識的に持っていて、それが現実となって現れる時怒りが起こり、阻止したいがために暴力へ発展する。

失うものとは、大事に所有しているもの、執着を置いているもの、自分のものとして位置付けるあらゆる物質・非物質・信念や価値を意味づけている全ての事です。

失うというのは、明らかな消失だけではなく、否定される事もそれであり、否定される事を否定したい、つまり自己を護りたくて怒りが起こり、怒りが臨界を超えると暴力となるのかも知れません。

耐える、我慢するというのは、暴力の発動を我慢しているのであって、怒りは起こっているのです。

暴力というのは、身体的ダメージを与える事だけではなく、精神的・心理的に(言葉や態度)それをする事も、あるいはその状態をイメージする事も暴力でしょう。

また、単に意地悪な性格から暴力的な行為をする人、そのような思念を抱くという人も、根底には自分を否定される事を否定する、受け入れてもらえない事を否定する、自己価値を護る故の現れなのではないでしょうか。

恐怖・怒り・暴力、これらは繰り返しの体験からの刷り込みによって、より具現されやすくなるかも知れません。
虐待を受けた子が親になった時、虐待をする親になると言うように。
ささいな事にも敏感に反応して怒りが起こり、どうしようもなく暴力に繋がって行く。

このような事は病気ではなく、日常にそのような環境に置かれた事による習慣的衝動なのではないでしょうか。

ほんとうは、誰だって、誰も傷つけたくない。
わが子、わが親、わが兄弟なら、尚更です。
しかし、信頼している相手なら尚更、否定・拒否される事が辛く、怒りがこみ上げてきます。

怒りは時として、表現でもあり、訴えでもあり、言葉に託しきれない思いを、感情を、わかって欲しくて起こしている事もあるでしょう。

相談者が、わが子に怒りを向けるのは、愛情の逆表現でもあるのではないでしょうか。
わが子なら、立派な者になって欲しい、きちんと出来る子になって欲しい、こうであって欲しい、ああであって欲しい、それなのに、受け入れてくれない。

相談者の親も、たぶんそのような思いがあって、愛情を怒りで表現していたのではないでしょうか。
そして、親もまた、その親からそのように育てられたのかも知れません。

そうであるなら、相談者の兄弟もそのように育てられたのでしょう。
つまり、妹や弟にも、同じような表現手法を使って、思いや感情を向けていたのではないでしょうか。

そのような刷り込まれる結果の継承が続いて行くのではないでしょうか。
言葉が受け継がれて行くように、国民性が受け継がれて行くように、価値観や尺度が受け継がれ、刷り込まれて行くように。

今、相談者が、わが子に対してそうであるのは、課題として託されたのではないでしょうか。
その連鎖を止める役目として。

もちろん、親も、兄弟も託されていたには違いないでしょう。
それでも親に於いては、親の問題であり、兄弟に於いては兄弟の問題です。
そして、相談者にあっては相談者の問題です。

それぞれが、それぞれの問題として、答えを導いて行かなければなりません。

そう考えたら、これは親も兄弟も自己暗示にかかっていたのであって、許せる事であり、許さないといけないのではないでしょうか。
それがつまり、連鎖を止める最初の「とっかかり」になると思うのです。

みんなが被害者であり、みんなが加害者であり、そういう事がひとつの家庭の中で起こっていた。
それは許してもいい事であり、許さなければいけない事であり、そして許す時、被害者も加害者もなく、ただの思い込みによって自ら作出していた断定であった事に気づけないでしょうか。

たいていわが子を叱る時、叱り方を学習していないから、怒るという手法を使ってしまいます。
怒るから、受け入れられません。
受け入れられないから憎らしくなります。
憎らしいと、ますます怒りがこみ上げてきます。

怒りながら「これではいけない」と思うでしょう。
思う人は、抑えようとします。
感情と理念という逆位相の摩擦が起き、葛藤します。
これはかなりのストレスとなるでしょう。

自分が刷り込まれた、あるいは作り出した価値観、尺度、わが子はこうであってはいけない、こうでなければいけない、は、わが子を想うが故ではあるでしょうが、ほんとうに価値ある尺度でしょうか。

抑えつける育て方より、健康で、すくすく育ってくれたらそれでいいのではないでしょうか。
他者に自慢する子でなければいけないのでしょうか。
食べこぼしをする子どもらしい子どもで、いいのではないでしょうか。
おもちゃを散らかすやんちゃでも、いいのではないでしょうか。

最終的に、立派な人というのは、偉い人でも、お金持ちでも、権力を持った人でも、賛美される人でも、ありません。
人を傷つけず、迷惑をかけず、穏やかに慎み深く、真面目に自分の人生を生きていける人であれば、立派なのではないでしょうか。

子は親の持ち物ではありません。
理想や夢、希望を、押し付けてはいけません。
それは今ある子への否定であり、悲しい事です。

愛情の主軸を、「こう育てて行く」から「見守って行く」に変えてみればどうでしょうか。
支配するのではなく、受け入れてみてはいかがでしょうか。
親が、子を受け入れるとき、子は親を受け入れます。

受け入れるというのは、許すという事です。
ほんとうの愛情は、そういう事です。
愛せるなら許せるのです。

受け入れる。
許す。

これを心がけて行けば、何に対しても許せる許容が広がり、怒りはめったに出なくなると思います。

 

 

2014-05-05

 

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