わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】気づきは人を怠惰にさせるか?

Nさんからの質問です。


> 花岡さんのブログを拝見し、気づきや目覚めについての記述に感銘を受け、コメントさせていただきました。
21歳のとき、最初に目覚めを経験してからかれこれ2年ほどたつのですが、今になって思うのは「私」は居なくて、悟りを得る人も居なくて、悟りもないということです。そして、世界は一つで、いかなる分離もあり得ないという言葉の真意も理解できました。
いきなりぶしつけに質問するのは失礼かもしれませんが許してください。私も花岡さんもマハラジもパパジも同じことですからね。きっと答えていただけると思い相談させていただきます。

最近になってますますハートが開いてきて、ほとんど一日中「私は在る」にとどまるようになってきました。それに伴い、人間関係も少なくなり、以前は遊んでばかり居たのですが今はただ在るだけなのです。欲が全くと言っていいほどなくなってしまいました。必死に努力して何かを得ようとすることもなくなってしまいました。
しかし私はこの上なく幸せなのです。ハートに愛(?)が押し寄せてくるような感覚です。(もっとも私など居ないのですが)
しかしながら、今は全くもって前に進む力を失ってしまったように感じています。欲もないので推進力がなくなったように感じるのです。
物質の世界との折り合いがつかず、少し混乱してしまっています。
このまま「在る」にとどまればよいのでしょうか。
そうすれば状況や行動は、ただ起こるのでしょうか。
実のところ「このまま何もしないのなら、世捨て人になってしまうぞ、以前のように努力をしろ」とエゴが主張しています。(もちろんやるべきことはきちんとこなしているつもりですが、他の残った部分は空っぽになっているのです。)
ただ個人という信念を捨てて起こるがままに任せておけばよいのでしょうか。



そのように、推進力の欠落のような状態になります。
戦う必要が無くなるからです。
意味づけに無意味を見出してしまうからです。

しかも、何とも言えない「甘い幸せ」感があるから、尚更です。

でも、それは変容初期の「戸惑い」を感覚しているようなものではないでしょうか。

以前のように様々な事象に捉われている状態であろうが、在るにとどまる状態であろうが、世界を認識している以上、起こる事は起こって行きます。
我々はその、起こる事の内容的違いを、以前と以後との比較で感覚するかも知れません。
しかし、それは捉われと、意味づけと、解釈が違ってしまったからそう感覚するのであって、起こる事そのそれは違ってなどいないのです。

違ってないのに、捉われず、決めつけず、真っ直ぐな解釈をし、真っ直ぐな解釈に従っていない社会を許す事ができるから、ハートは歪をつくらない。
そうであるから幸せを感受できるのではないかとも思えるのです。

エゴの立場になれば、「なんだ、このやる気の無さは・・・」と思えるかも知れません。
まだ、不慣れなのですね。
生きているのですから、内と外、両方に気づいている必要があります。

外の気づきが希薄になればなるほど、なまくらになったのか?と自我は言ってきます。
生を与えられているうちは、外にも気づいていなければなりません。

どうであれ、我々は与えられる立場でしかありません。
与えられた以上、みこころのままに、それを受け入れるしかありません。

今までは与えられた事に対して、「そうではいけない」「こうであるのが理想だ」と主張し、戦ってきました。
その勘違いがモチベーションの動力源ともなっていたのです。
国会中継など見ていますと、以前の我々の姿がありありと見て取れるのです。

受け入れられないから戦っていたのです。

今、そのような何もかもが夢である事を知り、世界も「わたし」も、実体ではない事を理解しました。
そうであっても、我々は有り続けている以上、これらの何もかもが終わらない以上、体験はしなければいけません。

だれにとっても、起こる事は必要であるから与えられるのです。
しかも、その人に対して調度良く、予定された分だけ与えられるのです。
その結果、心が病むとしても、それはその人の予定された成就を歪めてはいません。

そして、まだ終わってはいません。

つまり、まだまだ、体験し、学び知らなければなりません。

あなたの何かが答えを欲している以上、知って行かなければなりません。

そういう意味では、まだ始まったばかりなのだと言えるのです。

知りたい事の答えを、実体ではない世界に問うても、また、花岡に質問しても、満足の行く答えは無いでしょう。
なぜなら、「あなたという存在は、『あなたそのもの』で出来ている」からです。

つまり、答えを持っているのは、あなたでしかありません。

ハートが開いて、味わった事の無い至福を感覚するのは、なんと素晴らしい事でしょう。
しかし、その素晴らしさはその至福だけではないのです。

あなたが潜在して有する答えの泉の扉が開かれた事でもあるのです。
答えは、自らの中にあります。
そしてそれを、あなたは湧現させる事ができるのです。
他の誰に、それを暴かせる事ができるでしょう。
あなたしかありません。

どのような世界であれ、どのような次元であれ、存在するものは全て、存在していないのです。
それが存在しているのです。
あなたが、つまりあなたの実体が関与した、あなたの創造がそこに在るのです。

この事を理解できるでしょうか。

あなたの認識している何もかもの世界には、あなたとあなたの実体、それしか無いのです。
別の言葉でいえば、神とあなたの関係、それだけが全てを構成している理由です。

この重大な暴きが、あなたに起こるでしょうか。

たぶん、わたしはこの先の事を掘り下げて言う事を許されてはいないでしょう。

しかしあなたは、あなたとあなたの実体との関係を理解して行かなければならないと思うのです。
強烈な不可分の関係にある事を、このような物凄い真実の愛の関係にある事を、知って行くのだろうと思うのです。

原因に向かって、あなたは与えられて行きます。
その事の為に、あなたはあなたであるのです。

ですから、「なまくらか!」と自我は責めるでしょうが、与えられますからご心配なく。
そうしているうちに、なるように運ばれます。

とにかく、真実は凄いのです。
とにかく、真実は見事なのです。
とにかく、神は褒め称える言葉など無い程に、どうしようもなく偉大なのです。

無いものが在り、しかも完全に整合され、しかも解説しようが無い。

結局わたしに言える事は、「なにも心配ない」、これしかないのです。

たぶん、何を言っているのか解からないかとは思いますが、これはしょうがない事です。
解かるようには言えないのですから。

この事については、ほんとうに申し訳なく思っております。
わたしには教えてあげる事はできません。

内在された偉大なる智慧
それが花岡より優れた答えを導き出してくれるでしょう。

だから、やがて起こって行く起こるべき事を体験し、知って行けばいいのではないでしょうか。

与えられるものを与えられ、その全てに感謝し、神との素晴らしい関係を味わいながら生かされ終わるまで生かされて行けば、なるように、調度良く、なってしまうのではないでしょうか。

やる事は、そのうち現れてきます。

何も心配などいりません。

何も間違ってなどいないのですから。

 

2014-06-13

 

 

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