わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

結局最後は明け渡しです 花岡修平 「真我が目覚める時」

結局、最後は、明け渡しです

 

真我が目覚めていくプロセスには、様々なアプローチがあると思います。

修業という力技もあれば、神への純粋な憧れから起こる場合もあり、

また、どうにもならない苦悩と直面し、その放擲によって目覚める場合も

あるでしょう。

あるいは、ごく普通の生活をしていて、いきなり、それが起こる人もいる

かもしれません。

 

しかし、いずれの場合であっても、目覚める「それ」は、同じものです。

源泉が内側に溢れ、それが自我を溶かしていく至福、この喜ばしさ、

それは同じものです。

 

溢れ出る、理由も条件もいらない「神聖な愛」に歓喜するのは同じことです。

それは最終的にはどうしたって、

この源泉にすべてを預けてしまう結果になるのです。

 

どのようなアプローチであれ、それに目覚めるなら、

最後には、絶対、自分のすべてを明け渡してしまわなければいけません。

それなくして、恩寵は与えられないのです。

 

そうであるなら、今、明け渡すなら、誰だって目覚めは約束されるのです。

修業も信仰もいらないのですよって言ってるのは、そういう意味なのです。

 

ただ、「自分が在ることの不思議」、「世界が在ることの不思議」、「起こることが起こることの不思議」、「それが現れ来る不思議」に、何者かが現しているのだと、現しているその源泉があるのだと、確信できることが必要です。

 

それを不思議でもなんでもない、当たり前の事だと思っているなら、

その明け渡しをすべき相手などいないわけですから明け渡しようがありません。

 

まず、これらの現れという大事業を成している、大いなる存在が絶対

.あってしかるべきだという立場に立つことが必要です。

 

そのように確信するなら、被造物である我々は、創造主である源泉に元々、その御心によって、我々はあるのだから、自分のすべてを預け、明け渡し切っても、まったく大丈夫だと思えるはずです。

 

確かに、自我は抵抗するでしょう。

自分を明け渡すなど恐ろしいと思うかもしれません。

また、執着するものを手放してなど、絶対いやだと思うかもしれません。

 

それはそれで、その恐怖を、執着を、まだ味わいたい自我があるのでしょうから、

味わっていればいいのです。

 

味わいつくすまでは、味わうことは無駄にはなりません。

なにも問題などありません。

そのようにして、自我は完成して源泉へ溶け込みます。

 

しかし、このことを知ってください。

真実というのは、悟ってからはもちろん、悟る前であっても真逆です。

 

恐怖があって恐怖がいやだと思うなら、むしろ明け渡せばいいのです。

明け渡すとは、源泉に主導権を明け渡すことであるので、

もう、恐怖におびえる必要などなくなるように運んでくれるのです。

 

執着があって手放すのがいやだと思うなら、むしろ明け渡せばいいのです。

明け渡すなら、それよりもっと素晴らしいものを与えられるからです。

 

完全に明け渡すなら、我々は完全な満足を与えられるのです。

明け渡すことによって、源泉から与えられるのです。

源泉がそのように運んでくれるからです。

 

わたしは、この「明け渡し」ということすら知らないでいました。

知らないでいたのに、究極の苦悩、究極の困窮によって、

自分の一切を諦め、後の一切を源泉が運んでいくそれにただ

任せようと思いました。

 

それ以外にもう打つ手がなかったのです。

 

そう思った以上、何が起ころうが文句を言わず、起こること、起こっていくことを、

すべて受け入れようと思いました。

 

この自分に関わる一切と、自分以外の存在の一切を現している大いなる根本存在が在るのだろうという立場にあったから、それができたのです。

 

それは逃げることではなく、諦めてなすがままに受け入れるという開き直り、

向き合う立場に立ったからできたのです。

 

それによって恩寵をいただき、必要なものを与えられ、

今、完全に満足しています。

 

まったく自由であって、しかも、かつて自由と誤解していた我がままではなく、

完全な充足のある自由なのです。

 

そのことによって、このハートが開き、真実の愛に満たされ、自らも発し、

今まで味わうことのなかった幸福感に酔いしれました。

 

これを「明け渡し」と聖者たちが言うのだということは後から知ったのです。

 

わたしは「明け渡し」というものを知らないでいたのに明け渡したのです。

 

そうであるなら、そのことを知ったあなた方にできないはずがありません。

これは喜びであり、愛の導きです。

まったく安心して明け渡して、まったく大丈夫なのです。

 

しかし、完全な明け渡しというのは、後から、「ああ、やっぱり、今はやめておこう。」などと、後戻りはできません。

 

あるいは、いったん、明け渡しといて、後に、自分の自我の中に戻り、

源泉を忘れてしまうのではいけません。

 

それは源泉への裏切りです。

 

また、そう思うなら、最初から明け渡してはいけなかったのです。

完全な明け渡しが必要であって、また、その意味を知っていなければなりません。

 

明け渡しとは、自分(マインドの意志、自我)でやろうとせず、

源泉(神)にやっていただいて、お任せする、導いていただく、

また、その結果を完全に受け入れるということです。

 

そうであるなら、あらゆることから解放され、まったく自由になれるのです。

源泉がすべてを成し遂げてくれるのです。

 

我々に必要なものを源泉が気づかないでいるということは、

絶対ありえないないのです。

 

それは与えられます。

 

ただ、絶対的に源泉(神)を信頼し、愛し、感謝し、いつも忘れず、

思い慕っていなければなりません。

 

しかも、完全に明け渡すなら、そうなてしまうのです。

 

どのようなアプローチで目覚めにいたろうが、最後の最後は、

結局、明け渡しになるのです。

 

なんという素晴らしい真理でしょう。

多くの人が、これを知らずにいられることのほうが不思議です。

だれもが、これを知るべきです。

分け与えられるべきです。

 

あれの理由、これの訳、組み立ての不思議などは、その後知らされます。

 

その知らされる現象、わかっていく次第を悟りといいます。

 

まず、自己の変容である覚醒が起こり、その後、わかってしまう悟りがあるのです。

 

それらには、その前と、あるいは、その後も、その途中でも、溢れる真実の愛と、大いなる幸福と、喜びと、解放と自由が感覚されます。

 

このハートの扉が開かれ、内側にしっかりと神を感覚できるのです。

それなくして、目覚めとは呼べません。

 

内側に神をしっかりと感覚して初めて、外側にも神の臨在を見て取れるのです。