わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

2015-12-01から1ヶ月間の記事一覧

何も心配する事などない 花岡修平 「真我が目覚める時」

*e さんという方から送っていただいた記事を掲載します。e さん、ほんとうにありがとうございました。 何も心配することなどない 人は神に近づき、彼を知った後でも、この世に生活する。 その時には全く無執着の生活をすることが出来るのです。 そのような…

提案

このブログは、ある少数の読者の方々に、恐ろしいほど熱心に読まれている。 アクセス解析をしてみると、その様子が手にとるようにわかり、いかに花岡さんの言葉が人々の心の奥深くまで届くか、驚くばかり。 みなさん、携帯で、ipad で、PC でと、暇さえあれ…

「在る」だけがある 花岡修平 「真我が目覚める時」

「在る」だけがある わたしがこれまで綴ってきた事を、信じてしまってはいけません。 ただ、真実かどうかを検証して見る事です。 例えばスピリチュアルな世界、霊界や霊の存在、占い、予知、過去、未来、 そのようなものがあると信じるように、信じてはいけ…

「わたし」ではなく「わかる」として 花岡修平 「真我が目覚める時」

*読者からの質問に答えた記事と思われる。 「わたし」ではなく「わかる」として 心眼とは、「わかる眼」です。 イメージとして見る目ではありません。 心眼という眼は、見るというより「解く」あるいは「わかる」そのもの。 「わたし」と言う者を泳がせてい…

神とリンクしている 花岡修平 「真我が目覚める時」

神とリンクしている 多分、みんな自分は自由に意志を持ち、 その意思に従って行動していると思っているでしょう。 自分の意志は全く自由だと思っているのです。 「わたしがやっている」と思うのです。 でも、自分の意志どおりに事が運ぶ事は、あるでしょうか…

あるがままに見る (2) 花岡修平 「真我が目覚める時」

あるがままに見る(2) クリシュナムルティが言う、「あるがまま見なさい」ということ。 「あるがまま」で居ないと、「あるがまま見る」ことはできません。彼は来訪者と共に座り、緑豊かな周りの景色を見て、木立ちを渡る風、鳥たちのさえずり、清涼な静け…

あるがままに見る 花岡修平 「真我が目覚める時」

例えば散歩をしていて、道路のわきに花を見つけたとします。 しゃがんで、よく観察しようとします。 その時、その花を見る事ができるでしょうか。 あなたなら、確実にその花を、あるがまま見る事ができますか? 人がその花を発見し、見つめる時、思考が過去…

あるがままの自分 花岡修平 「真我が目覚める時」

あるがままの自分。 このように言われるとき、人は自己を見つめようとするでしょう。そうして、様々な性格上の事柄や、癖や、嗜好や、主義主張や、身体的な事や、守るべき何かについてまで考えてしまいます。 あるいは、今いかに困窮しているかとか、資産的…

「わたし」という分離と人生の学び 花岡修平 「真我が目覚める時」

*表題は、記事の内容に即して私が付けた。 「わたし」という分離と人生の学び あなたが認識する全てはあなたの中で展開されているのです。日常のささいな出来事も、宇宙の壮大な運行も、あなたの意識の中に起こっている事です。 「わたし」という主体が現れ…

「わたし」という幻想・神の正体 花岡修平 「真我が目覚める時」

*読者の質問に答えた記事、あるいはコメント欄での返信と思われる。タイトルは、内容に即して私の判断で付けた。 「わたし」という幻想・神の正体 思考とは、マインドそのもの。あなたにとっての「わたし」です。あなたが思考するとき、あなたにとっての「…

分離はない 花岡修平 「真我が目覚める時」

分離はない 主語を使わない、あるいは、犬とか猫とか、木とか空とか雲とか、名詞を使わない。そのような事が、何の役に立つのかと言う事を、以前申し上げました。 これは、世界に置かれた個々についての境目を消し去る事なのです。 そのような気持ちで周囲を…

記憶の中に住まないように 花岡修平 「真我が目覚める時」

*内容から判断すると読者の質問にたいする答えのように思える。 記憶の中に住まないように 本来のあなたは、どのような者であったのでしょう。本来のあなたは、記憶に住む者でしょうか。それとも、記憶の前を行く者でしょうか。つまり、今に住む者でしょう…

夢と現実と真実 花岡修平 「真我が目覚める時」

*ある方から送っていただいた花岡さんの記事をこれから掲載していきます。どれもすばらしく重要なものばかりです。Nさん、ありがとうございました。 (各記事のタイトルはオリジナルのものではなく、送ってくださった方が記事の内容に基づいてご自分でつけ…