わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「わたし」ではなく「わかる」として 花岡修平 「真我が目覚める時」

*読者からの質問に答えた記事と思われる。

 

「わたし」ではなく「わかる」として

心眼とは、「わかる眼」です。

イメージとして見る目ではありません。


心眼という眼は、見るというより「解く」あるいは「わかる」そのもの。


「わたし」と言う者を泳がせている実体の、その属性として存在しているという事。


「わかる」がわかる事で、それによって、

わたしがわかると思い為す事ができるそれの事です。


言い換えたら、強力な察知能力の事です。


それを踏まえて、その落ち着いた暗い場所から、現実の「今」に戻ってみてください。

この瞬間の「今」だけが現実としてある世界を見てください。それ以外は記憶です。


この「今」にある時、何が世界を見ているでしょうか。


「わたし」が見ていると認識しているとして、その「わたし」が、かの暗い場所

に行ったとき、やはり暗い場所を見ているのは、「わたし」なのではないでしょうか。


それだから「わたし」はそこでも継続しているのではないでしょうか。


もう一度、現実のこの瞬間の「今」一瞬の世界を見てください。

「わたし」ではなく、「わかる」で見る事ができるでしょうか。

これは重要な取り組みです。


「わかる」にフォーカスして、その「わかる」に世界を見てもらってください。


その時、世界を見ていながら、「わたし」はいません。どこかにすっ飛んでいます。


見ているのは「わかる」であり、「わかる」によって、世界がわかるのです。


その時、世界と「わかる」の双方を気づいているでしょうか。

そうであるならば、世界も「わかる」も、双方気づいている者から離れてはいません。


そしてまた、「わかる」によって世界を見ているなら、「わたし」はいません。

つまり、気づいている者は、「わたし」ではないという事です。


「わかる」が世界を見るのを、辛抱して続けてください。


その時、「わかる」の在り処を(ありかを)、認識できますでしょうか。


そこがハートです。


「ここ」「これ」と言われる場所です。

まあ、それ以外に言いようがないのですが。


「わかる」が世界を見ている時、つまり世界をわかっているとき、

はじめて気づいている者がわかっている者であると認識できます。


しかしそれは「わたし」ではなく、「わたし」をはるかに超えて

大きい存在だと気づけるでしょうか。


それが、わかっている全てに意識を波及しているから、

それはとてつもなく大きいのです。


大きさなどという限定の無い、大きさと言う観念を飛び越えて在るのです。


その「わかる」は、先ほどの暗い場所へ行けるでしょうか。


暗い場所は既に、「わかる」によって占有され、暗い場所から、

輝ける場所に変わっていないでしょうか?


わかるの大きさの中に、取り込まれてしまってはいないでしょうか。


たぶん、暗い場所は、「わたし」が意味づけてしまった限定された場所

なのかも知れません。


そのような事が、全て、見ていた世界も含めて、

あなたの中で起きていたのだと知れるでしょうか。


さて、「わかる」そのものに、意識の全てを突入できるでしょうか。

つまり、「わたし」に関わる一切を、預け任せ切る事ができるでしょうか。


そのように見る時、世界のどこにも分離の無いのを、知る事ができるでしょうか。

また、世界の全てが、「わかる」の中に、あるいは「わかる者」「気づく者」の中に

在るのを感覚できるでしょうか。


「わたし」というのは、その中の、小さな思考、点でしかありません。


さて、「わかる」が世界を見るように、その見方で世界の限定された部分

を見る実験をしてみましょう。


例えば、お子さん。

自分の子でないほうがわかりやすいかも知れません。


その意識がわかりますか?
姿ではなく、意識がありありと、存在感をもって認識できるでしょうか。


彼の、あるいは彼女の意識が、「わかる」に流れ込むと言うか、

ジョイントするのを感じられますか?


その時、彼、あるいは彼女も、意識を捉えているのを気づけますか?


誤解されますので、食い入るように見ないでください。

電車に乗って、いろんな世代のいろんな人の意識を感覚してみるのは、

とても感覚的に新鮮です。


これは生き物たちが普通にやっている相手への値踏みだったり、

意思疎通だったりします。


人との交流の場で、「わたし」ではなく、この「わかる」、これで、

付き合ってみてください。


人というものが、別の意味で、よ~く見えてきます。

実験はここまでです。


さて質問はこうです。

ハートには何も無いのに、なぜ真我がそこに在るとラマナは言うのか。

ハートの奥とは。

ハートの感覚を意識する瞑想は有効か。

わたしはあなた、あなたはわたし、「わたしにはわたししか居ない」のに、

それはどういう事か。


質問者は、「わたし」の立場を崩してはいないのではないでしょうか。

「わたし」をすっ飛ばす事を、していないのです。

「わたし」があるとき、ハートは胸の位置の小さなマーカーです。

しかし、「わたし」を忘れてそれに漂い遊び、浸りきって世界を見る時、

世界は世界を超えてしまうのです。

つまり、「わたし」のほうが、小さな点に逆転するのです。

ハートに任せて世界を見るなら、まるで見え方が違ってきます。

愛溢れる世界を見る事ができます。

愛は、あそこからやってきます。

そこに在るそれ、根源がそこに在ります。

それが、わたしに関わってくれているだけです。

世界が有るのは、それが在るからです。

それは形ではなく、言葉でもなく、思考でもなく、

時間でもなく、空間でもありません。


表現しようもなく、在るです。


世界として現れるものは、「わたし」「あなた」「彼等」、

全部意味づけが「わたし」に許された世界です。

世界は現すものが現すにしても、意味づけて分離したのは「わたし」です。

ほんとうは、「わたし」も「あなた」も「彼等」もなく、

全部現れそのものに過ぎません。

それはただ、模様なのです。


それだから、意味づけ、あなたはわたしのイメージ、

同じようにあなたもわたしをイメージしています。

結局は同じものであって、ただ現れです。


「わたし」がハートを意識的に瞑想するなら、それはエゴです。

そうではなく、ただ受け入れて感覚する、感受する、それにくつろぐ、

漂い遊ぶ、そのようにしてみてください。

ハートを理解してあげるのは、大切です。


困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。

ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。

そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、

もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。

ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。

ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。


そうすれば、「わたししかいない」、と言う理解が、

「わたしが全てだった」という理解に変わっていませんか?

つまり、わたししかいないのではなく、すべてが在ってそれら全部はわたしなのだ

という気づきが起こりませんか?

境界などほんとうは無かったのです。

全てあるがまま在って、「わたし」がそうではなく見ていたのだと、気づきませんか?


このような説明では、おわかり頂けないかも知れません。

しかし、そのようにしか言えません。

言葉どころか、思考を超えた、かの世界です。

「わたし」に関わる一切を、それに明け渡して

「わたし」がすっ飛ぶのを許可してください。

まず、そこからの言いようの無い、至福に満ちた愛を、味わってほしく思います。


さてそして、日常で胸のハートがうずくような喜び

に満たされる事ができるでしょうか。

それさえできれば、いつでもそこへ行けるでしょう。


体験して知るには、まったくそれに、無条件に自分の全てを明け渡して、(もともと無

いのに与えられた自分ですから)、自由にわたしを使ってくださいと、それの中に死ぬ

「覚悟」を持つ事だと思うのです。


それがつまり、目覚めて悟る、「覚悟」そのものではないかと思うのです。