【時系列 花岡修平】お答えします「人生に意味はあるか
> 花岡さん、こんばんは。
私の場合はーただ見るーということは把握しています。
それはただ見るということで、ただあるということだけです。
ラベル貼りを止めて静かになれば誰にでも分かることだと思います。
たまに自我の中に本当に突入してしまうと、それはこの前のように愚痴のオンパレードになってしまいますが、やっと完全に抜け出して来ました。
来るに任せ行くに任せですね。
最近はただ生きていれば良いんだという心境になって来ました。
私の質問は「自我のこの人生って、本当に意味があるの?」っていうことです。
必要だから与えられてるってことみたいなんだけど、やっぱりどうして?、またいつまでこんなことしているんだろうって思ってしまいます。
早く自由になりたい気持ちです。
Pさん、お久しぶりです。
早く自由になりたい、その自由と言うのは、自我からの自由でしょうか。
人生からの自由でしょうか。
自由になる方法は知ってるけれど、できないんですよね。
今、できる事だけど、まだ手放せない。
喩えて言うなら、物を捨てられずゴミ屋敷化してしまった住人、彼は捨てるにも未練があり、かといって役に立つあても無かったり、という状態でしょうか。
断捨離とか、ときめく片付けの魔法とかが、ブームになっていますが、そのようなちょっとした視点の変え方もあっていいかも知れません。
早く自由になりたいというのは、「自由ではないから」なんですね。
自我、人生、に不自由を感じていて、つまり、日々起こる事に反応し、嫌だとか、しんどいとか、思考や思いが起こってしまう。
こうであったらいけない、ああであったほうがいい、という理想を思い描いてはいないでしょうか。
その時、絶対「今」にはおらず、思考の夢にはまっています。
明日への理想は、今日の否定です。
未来への希望は、今への不満です。
あなたの中に、「今、不満がある」事を気づいているでしょうか。
満たされていないのです。
それは、喜びが見いだせないからではないでしょうか。
喜びが見いだせないにも関わらず、「ただ生きていれば良いんだ」というのは、事実納得しておられるでしょうか。
「ただ生きていれば良いんだ」というのは、究極的に事実です。
しかし、それはそのように、絶対的な確信を持てる「理解」が起こる時にはじめて、そう言えるのです。
言葉は鵜呑みであってはいけません。
ほんとうにそのとおりだったと言う、内側からの否定しようの無い納得があって、やっとその真実に辿り着くのです。
言葉の暗示にかかる必要はありません。
こうだから不満に思っている、ああだから今が嫌いだ。
こうだから、ああだから、という理由は、真実正当な理由でしょうか。
それは、自我の思い込み、尺度、いつの間にか刷り込まれた価値観で判断してはいないでしょうか。
起こってしまった事、起こりくる事、今起こっている事、それにどんな間違いがあるのでしょうか。
間違いだとする根拠は、利己的なものでは無いと言い切れるでしょうか。
間違っている事を、我らの根源は、示されるのでしょうか。
間違っていないから、他の事が、他の人の事が、森羅万象が、間違いなくそれに準じて整合されて全部が動いて行くのではないでしょうか。
自我は確かに、それらを嫌がっている。
別の代替を欲しがっている。
自我とはそういうものです。
それも間違っていると断定しないでください。
自我はそのようにして、嫌いながら、欲しながら、好きになりながら、所有したがり、蔑視したがり、意味づけたがり、断定したがり、裁きたがって、それでその役目をしているのです。
人生とは、まさに自我の活躍する自我の世界なのです。
そのように、我らの根源は、組み立てられました。
しかし、真実のわたしと言う者は、自我ではありません。
それはそれは、愛溢れる、慈しみに満ちた、輝く存在です。
自我は、なんだかんだ言っても、しっかりと自分の役目をしていて、神に忠実であるとさえ言えます。
さて、いつもその自我に気づいているでしょうか。
人生をけん引しているのは、彼です。
彼あっての人生です。
彼がある意味、汚れ役を担ってくれて、我々は学び知る事が出来ているのです。
そうであるなら、あなたは、あなたの自我を愛おしいと思えないはずがありません。
そういう自我であっても、否定も嫌悪も無しに認め許してあげてください。
本来、悪いも善いも、解釈は意味づけであり、思い込みであり、それによる断定です。
チャチャッとラベルに書き込んで、ペタッと貼っているだけです。
自我であるあなたの中の「わたし」でさえ、根源の意図した組み立てのとおり、逆らわず役目をこなしているのですから、ましてや本性のあなたは根源の意図を汲み取れないはずが無いではありませんか。
根源は自我の織り成していく幻を見せる事で、あなたが自我から本性に気づく事を、「愛のまなざし」「慈悲のまなざし」で見ているのです。
体験して知って行く、その知る喜びと、知らなかった真実の愛を知る喜びと、わたしとはほんとうは強い慈しみを持つ者だったのだと知る喜びと、全てが何も間違っていなかったと気づく喜びと、いろいろな喜びを、あなたが味わってくれる事を辛抱強く待っています。
もちろんこれは、この世的な言い回し、つまり方便ではあります。
でも、言葉を使うなら、こうしか言えないのです。
言葉の及ばない世界の事です。
あなたに内在している高次な感性で汲み取ってください。
そして質問は。
> 「自我のこの人生って、本当に意味があるの?」っていうことです。
必要だから与えられてるってことみたいなんだけど、やっぱりどうして?、またいつまでこんなことしているんだろうって思ってしまいます。
意味のない事が、在る理由はあるでしょうか。
意味のない事が、起こり得るでしょうか。
意味こそが、原因です。
意味が現れたとき、意味が成就されるべき現象が起こり出すのです。
(ここは、深く洞察してみてください)
我々は勉強する為に学校へ行ったはずです。
学校へ行ったから勉強するはめになったのではありません。
我々はコンサートを楽しみたいから会場へ行ったのです。
会場へ行ったからコンサートに出逢ったのではありません。
我々は、有意義な大意の故に、人生を体験する意思(自我)を持ったのです。
大意とは、我々の共通の、あの根源の「みこころ」
現れるまま、あるがまま、それは大意にとっても我々にとっても必要だから現れ来るのではないでしょうか。
我々の活動が、そのまま根源の活動なのではないでしょうか。
その活動源は、「真実の愛」。
我々が、それに気づき、それ自体である事に気づきさえすれば、「みこころ」は成就されたのです。
我々は有機体ではなく、物理現象でもなく「それ」であるけれど、あの「在る」と「同じ在り方」をする同じ「在る」であるけれど、「在るが在るで在る事」によって、「我々も在るも在るたらしめる事のために」、この活動(人生という夢見)をしているのではないでしょうか。
いつまでという事もなく。
わかってしまえば、いつまでという事もなく。
それは突然、そうなります。
どうすればそうなるか、それはどうしたって、全部根源にお返しする覚悟しかないのです。
恐れる事無く、明け渡して、根源に面倒みてもらってなんとかなるしかないのです。
これが、なんとかなってしまうから、喜びが湧いてくるのです。
それだから、感謝でいっぱいになるのです。
この根源、神の愛ってほんとうに素晴らしいなって、強く納得できてしまうのです。
それを味わっているうちに、わかってしまいます。
わたしなんかが、このようにうだうだ言うのを読む必要も無く、わかってしまいます。
なんとかなる。
なんとかならずに、死んでしまってもいいと思わないといけません。
死んでしまってもいいから、それに全部明け渡すのだと、覚悟して、そうしないといけません。
言ったら、なんとかなるという思いさえ起こさず、根源の中に死んでください。
それが、完全にそう成されているのであれば、恩寵が降ります。
ここまで来れたのですから、もうすぐです。
みなさんも、もうすぐなんです。
わたしはとても、楽しみにしています。
「全部明け渡す」これだけです。
これだけで、「それ」に逢えるんです。
それでも、まだ、そうしたくない。
未練が残る。
それはまだ、「体験しなさい」と、根源が言っておられるのです。
2014-04-24