わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「境界性人格障害」

Yさん、おひさしぶりです。


> どうしてもお訊ねしたいことがあり、コメントさせていただきます。

それは、ある精神病の類で苦しむ人の症状と、目覚めや悟りというものに向かうプロセスが、とてもよく似ているのではないだろうかということです。普通の自分と感情の起伏が激しく怒りをコントロールできない自分との間を行ったり来たりしています。

ある日、「これは目覚めに向かうための移行期間とかではなく、精神的なものなのではないだろうか」と思い、ネットで調べますと、境界性人格障害という症状ととてもよく似ているのです。

私は現在35歳で、昨年結婚しましたが、それまでは実家暮らしで、怒りが爆発し、コントロールできなくなって、家族を怖がらせたり気を使わせたり、疲れさせていました。でも、なんでもないときはニコニコしていて、楽しく過ごしているのです。

でもあるとき…特に母親に傷つくことを言われたり、妹の方を大事にされたり、自分を雑に扱ったりされたと感じたりすると、もうどうにもならないくらいの怒りと悲しみが同時に湧きあがり、泣き叫んだり、物に八つ当たりしたり、尋常ではない怒り方をしてしまいます。

一番ひどかったのは、20代でした。それは身近な家族に向けられます。特に、やはり母親です。大好きなのに、大嫌いで憎いのです。
書籍やネットなどで調べると、幼いころなどのトラウマが境界性人格障害を引き起こすきっかけとなるようでした。

この、自分の状態は、果たして…名づけるなら目覚めへのプロセスで「魂の試練」というものなのか、人格がうまく形成されなかったための障害としてあるのか、わからなくなってきました。

現在結婚し、幸せなはずなのにどこか虚しいのです。今は怒りを向けてしまう対象が夫になり、心配してくれています。
いつかは赤ちゃんを…と思っていますが、こんな自分に愛せるだろうかと不安です。
今の私はまだ「いつかわたしにもわかる日がくる、あんなに色々頑張ってきたんだから、いつか悟れる。いつか、いつか」と待っています。

今までずっと、自分の状態をスピリチュアルなこととして必要なことだと思い、そういう方面にばかり向かっていましたが、病院に行ったり、あるいはカウンセリングなどを受けて治療した方がいいのでしょうか。
それとも、これもわたしが映している景色としてただ受け入れるのか…。

花岡さんはお医者さんではないし、精神的な症状に詳しいわけではないことは承知していますので、もしお答えできなければ、構いません。
自分の状態をまとめることが出来ず、誰かに聞いてもらいたくて、質問させていただきました。



精神疾患と目覚めや悟りとの間に共通する類似点は何もありません。
精神的特異性があるから、目覚めや悟りに有利に働く事も、絶対ありません。
薬物や特殊なハーブの摂取で、疑似的に境地を体感しても、それが悟りに結びつく事もありません。

おっしゃるとおり、わたしは医者ではないし、カウンセラーでもないので状態について適切な答えは見出せません。
申し訳なく思います。

しかし、人は誰でも多かれ少なかれ、そういう素質を持っていて、顕著に出る人もいれば、ある程度抑止が効いて出にくい人もいるのではないでしょうか。

精神医学から言えば、それは境界性人格障害かも知れません。
だとしても、だから何がどうしたのでしょうか。
程度が違うだけで、誰だってみんなそれなんです。

普通と病気を、どのポイントで分けるのでしょうか。
その分け方は曖昧なのではないでしょうか。

ちょっと扱いにくい個性ではあるけれど、思い悩むのを止めて自分を許してあげてはどうでしょうか。

パーフェクトな人格を備えた人など、どこにいるのでしょうか。
そのような人は自分も含めて、今まで生きてきて、ただの一人も出逢った事がありません。
そういう自分で何も間違ってなどいません。

目覚めへのプロセスとしてそれをお考えのようですが、言ったら目覚めへのプロセスは起こる事全てがそうなのです。
意味のない起こる事など、ありません。
どのような起こる事も、ぞれは最終的には目覚めへと続いて行きます。
ひとつの事だけに限定して見ていたら、見ていないのと同じです。

あなたはあなたでいいのです。
わたしはわたしでいいのです。

そもそも「わたし」などありません。
作ってしまったから、そう捉えているだけです。

自分を責める必要などありません。
同じように、他人を責める事もしないでください。

あなたが幸せを知らないのは、幸せを知る学びを体験している只中にあるからです。
あなたが真実の愛を知らないのは、真実の愛を知るための体験の只中にあるからです。

それだから、あなたは在るのであって、どうしようもなく拒否も肯定もしようもなく、在るしかないから在るのです。

そのような、あなた専用の誂え(あつらえ)、スーパーカスタムメイドとも言うべき尊い「生」を生きているのです。

こうであってはいけない、あるいは、こうあるべきだ、そのような基準などは人の勝手な思い込みであり、意味づけに過ぎません。
自分の思い込みに挫けては(くじけては)いけません。

あなたが、あなたでいる事は、(神によって)許されているから、そうであるのです。
(神にとって)あなたは必要なのです。

必要でないものが、どうして存在し得ましょうか。

この事がわかりますか?

怒りが起こるから自分はだめだとか、愛を知らない、愛せないから自分はだめだとか、馬鹿げた思い込みをしてはいけません。

気質は個性であり、それを基に人は学ぶのです。

感情も、愛も、それは出来事に干渉し、反応するから湧き起るのであって、誰だってそうなのです。
怒りが特別強く出るからといって、おかしいのではありません。
それを制御できないからといって、だめなのではありません。

あなたは毎日、その事で反省するかも知れません。
しかし、反省とは自分を責める事ではないのです。

省みて(かえりみて)真相を明らかにし、対処する事です。

自分でも気づかない惨めさ、劣等感、暴かれたくない何かを、奥底に隠し持っていると言う事があるかも知れません。
他者の言葉や、自分の思い込みや誤解や、受け取り方の歪みによってそれを刺激し、我慢の限界を超えて暴力的人格が筆頭に立つと言う事があるかも知れません。

しかし、平常時のあなたは、穏やかで普通なのです。
平常時のあなたは、何処にいるのでしょう。

それを見つけて下さい。

自分が怒りに燃えているとき、怒っている事に気づいていますか?
怒っている自分と、それに気づいている自分の二つがあるのを気づいていますか?

相手を殺しかねない程怒っていても、「今怒っている自分がその余り事に及ぼうとしている」と冷静に見ている自分があるのです。
それが、胸の位置にいつでも落ち着いていて、穏やかな時は分離せずそこにいるはずです。

それに気づけるでしょうか。

怒りのその時に、その冷静な自分に気づきさえすれば、怒りはそれに下り沈んでしまいます。
怒りとは、怒りと言う気の頭への昇りなのです。
見破る者がいて、見破られているとそれが気づけば、下って沈むしかなくなります。
「気を沈める」とは、そういう事です。

胸にある自分に気づいてください。
それ以外は全て、思考作用なのです。
その自分は「わたし」という意識が及ばないから気づけないだけです。

エゴと呼ばれる自我も、「わたし」という意識も、全て思考なのです。
それは、現れては通り過ぎるものです。

胸にある、冷静な自分だけが、いつも変わらずある自分で、それは通り過ぎるものではなく、いつもそこにあります。
それが、拠るべき真我へと通じているのです。

それに気づけないから、空虚で寂しくて、しょうがなかったのです。
愛に気づけなかったのです。
しあわせに気づけなかったのです。
大好きな人を、独り占めしたくてもできなくて、憎らしかったのです。

いつもそこにいてください。
まずは、そのように訓練してみてください。

ドクターに診察してもらえば、境界性人格障害とか、統合失調症とか診断されるかも知れません。
薬を処方してもらうのもいいでしょう。
だる重い、ボーっとした生活になりますが、激情性は緩和されるでしょう。

しかし、病気と普通とに、大した違いは無く、みんながみんな、そうなのです。
もっと自分に自信を持って暮らして頂きたく思います。

普通の人と、なにも違ってはいません。

また、悟りをそれからの逃避に使ってはいけません。
別な何者かになろうとしてもいけません。

悟りなど無くひとつひとつ気づいて行く毎日の連続があるだけです。

いつか悟ったらどうにかなるなどと、未来に希望を抱いていたら、いつ「今」に帰ってくるのですか。
今起こる事、起こっている事に、学びがあるのだと思い起こしてください。

与えられた自分の人生を否定しないでください。
それを生きて、はじめて与えらるのが、目覚めです。
体験しない事には、知る事ができないからです。

まず、自分の人生を生きない事には、はじまりません。

否定も肯定もなく、受け入れて生きてください。

ご主人もサポートしてくれるでしょうから、赤ちゃんも愛せます。
素敵なママになれます。
自信を持って、胸を張って生きて行きましょう。

 

 2014-04-19

 

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