わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】質問頂きました(探究者の次の一歩)

質問は非公開でしたが、メールでのお答えは一切しておりませんので、問題ない程度にトリミングしてここでの回答とさせて頂きます。

質問者は、事業の失敗や葛藤を機に瞑想に興味を持ち、以来探究する者として今に至っているそうです。
多くの方と同じように、本やネット、各方面のメディアを通して知識を吸収して来られたようです。

まず、このような質問(疑問)から。


> 私のこれまでの探求や経験は詰まるところどうでもいいのだろうと思いますが、例えば 

「悟りが訪れる時期は決まっているので悟りを開くためにあなたにできることはない」という人もいれば、「探求することによって悟りのプロセスを加速させることができる」という人もいたり、 

「探求はエゴが'行う'ことであり、探求することによってあなたはエゴをより強固なものにしてしまっている」という人がいれば、「探求するべきだ」という言う人もいたり、 

「心を浄化しなさい」という人がいれば、「そんなことをする必要はなく、必要なのはただ今在ることを認識するだけだ」という人もいたり、 

「今この瞬間に留まりなさい」という人がいれば、「今この瞬間とはあなた自身であり、そこに誰かが留まろうとすること自体が自我の分離を前提にしている」という人がいたり、 

「全てを明け渡しなさい、許しなさい、愛しなさい」という人がいれば、「悟りが訪れればそれらは必然的についてくるものであり、悟りが訪れる前にそれらを実践しようとするのはエゴの働きに過ぎない」という人がいたり、 

等々、色々な言説や助言があり困惑することも多々あると同時に、真我に気づくためにその人に必要なことはそれぞれで、また、これらのことは同じことを違う視点から言っていてどれも多かれ少なかれ真実を含んでいるのだと思います。



この見解に落ち着いたのは、とてもよかったと思います。
それぞれが真逆のように見えて、(それなりに)間違った事を言っている訳でもないからです。
ただ、それぞれが余りにも「言葉足らず」で(わたしもそうですが)そんな事よりも大切な「過程の学び」を言わないから戸惑う訳です。
つまり、苦悩に学んで初めて言える答えには、苦悩にこそ学びそのものがあったのだと後になってから言えると言う事です。

どっちなんだ?と思われる方もいらしゃると思いますので、上の疑問にわたしの見解を言えば。

得るための探究であれば得られる事はなく、内なる衝動があり探究せずにはおれないなら探究すればいいのだと思います。

心の浄化とは、認識するその認識力を、より状態の良いものにするには、おろそかにしない方がいいと思われます。
欲で汚れていて、どうして神聖なる真理を観る事ができましょう。

明け渡しについては、「悟りありき」を捨て、無条件の明け渡しに入らない事には、どうにもならないと思うのです。
悟りは、悟るものではありません。
それは、どうしたって与えて頂くもの、恩寵によるしかないのです。
明け渡せないなら頂けないのだと、ご理解願いたいと思うのです。
また、悟る事によって増々、明け渡しが揺るぎ無いものなって行くという事だと思います。

我々は探究する余り、短絡的に答えを見つけようとします。
そうであれば、それはただ知識としての答えであり、わかった事とはなりません。

わたしが言う「誰もあなたをそこへ連れて行ってはくれないのだ」というのは、誰かから答えをもらっても、あなた自身が体験し、その体験に学ばないのであれば、「どうしてその答えが正しいのだと納得できますか?」という事です。
それだから、その苦しみの日常に、人生に、それがそのまま覚醒の手がかりがあり、それに注意深く学びなさいと言っているのです。

相談者は、知識はもう充分に溜め込みました。
探究者には、むしろそれが阻害となる場合のほうが多いのです。
もう学ぶ相手を変えましょう。
あなたの師は、あなたの人生そのものであり、また、あなたというその内部に真実の師がおられます。

あたたにとって瞑想が有意義であるならば、瞑想を空しいものにしてはいけない。
あなたの内なる師にジョイントする瞑想でなければなりません。
外の世界に理想を求めたり、希望を求めたり、ましてや悟りという野望の匂いのするものを求めてはいけません。
あなたの内側に感覚するものを感覚するよう日常を生きて、人生にちりばめられた意味を解いてください。

そして質問は、こう続きます。


> いずれにしましても、色々なスピリチュアルなプラクティスと呼ばれるものには一通り手を出してきました。
自分にできることはやりつくし、袋小路に追い詰められた感があります。
どんなプラクティスでも、自我のレベルでは大小関わらず何らかの気づきがあり、自我が薄れていく、もしくは心が軽くなっていくことははっきりとわかるのですが、しかしそれが悟りへ通じるものなのかといえば、大きな疑問符が付きます。また、もう悟り・スピリチュアルは一切忘れて自我を自分のアイデンティティとして生きていこうと開き直ろうと試みたこともありますが、例え一瞥であったとしても悟りの視点を垣間見てしまうと、それを見なかったことにして生きていくのは非常に難しい・不可能であると感じます。 

花岡さんがおっしゃるように、もう明け渡すしかないように感じるのですが、花岡さんがおっしゃる「明け渡す」とは、何か自発的に行えることなのでしょうか、それとも、「明け渡し」が訪れるのをただ待つしかないのでしょうか?もしくは、何かその他アドバイス等ございましたら、どんなものでも大変感謝いたします。 



あなたに現れたもの(事業の失敗、葛藤)が、なぜあなたに現れたのでしょうか。
なぜに、あなたなのでしょうか。
それをあなたが求めなかったとしても、あなたに必要だったから現れたのだとは思えないでしょうか。
与えられる事になっていた必要な事象が、与えられてしまったのではないでしょうか。

その事で何を味わったのでしょうか。
焦りと苦悩、事態を何とかしようとする戦いと、何のために?と言う葛藤と、最後に、もうどうにもならないという絶望。
その絶望を充分に味わい、それに学ばれましたでしょうか。

ラクティス。
そのようなめったに無い、素晴らしいプラクティスが、あなたに現れたにも関わらず、これがそれではないとしてしまうのですか?

悟りなど、無いから悟りなのです。
悟りという名前を付けるから迷うのです。
それが、希望になってしまったから迷うのです。

ここにロジックの罠があったのだと思えないでしょうか。

もしも、そのような希望が無かったなら、あなたは存分に絶望を、そのどん底を、嘆きの中で舐め味わい、事象を与える者に白旗をふり「もう好きなようにしてください」と降伏したのではないでしょうか?

悟りという希望を抱くから、学べないのだと思うのです。
まだ戦えると思ってしまうのです。
それだから明け渡せないのです。
希望は迷わせるのです。
あるがままから、かけ離れているから希望です。
美化するものではないと思います。

あるがままとは、与えられる事になっていた事象が、与えられてしまったという事実そのもの。
あなたに関わる一切は、与えられてしまった事以外はありません。

必然なのです。
それに、知らぬうちに持ってしまった価値観、尺度、で自分なりの意味づけをして抵抗していたのではないでしょうか。

ただ受け入れるのです。
受け入れず、希望にふらふらすがろうとしていたから、葛藤していたのです。

腹を括って、あるがまま受け入れるとき、どこに希望などという迷妄が生じるでしょうか。
たとえ与えられた事象は押し付けなんだと思っていても、その与える者に、迷妄する自我を明け渡してください。

これは自発的(意識的)にも、自然に訪れるものでもなく、あなたの中にそうするしかないという、実体験による学びが起こった時、そうなります。
そうせずにはおれなくなります。
完全な明け渡しができたかどうかは、ご自身ではっきりとわかります。
もう、いつ召されても大丈夫だ、という、しっかりした確信にはいってしまいます。
与える者、その絶対者への感謝と、見返りなど求めない真実の愛が、あなたに芽生え急速に成長します。

そうでなければ、まだ学び切れていないのですから、まだまだあなたへの与えられるはずの事が、与えられて行くでしょう。

自我が引き寄せようとするのは、いつだって与えられる事の否定から来る真逆の身勝手な事です。
「願望達成」のスタンスは、神聖な真理からはとてもかけ離れているのです。
それでは彷徨いの終焉はありません。

さて、与えられる事象を、あるがまま、素直に、否定も肯定もなく、真摯に受け入れて、そういう姿勢で生きて行こうと思えるでしょうか。

そうするなら、起こる事が起こるのです。
つまり、そのような驚くべき変容さえも、与えられることだったのだと知る事になるのです。

そのそれを、恩寵と言うのです。

与えるあの者は、あなたの中に在って、いつでも教えようとしているのです。

いつかその絶対者に、感謝の涙を捧げる日が来ると、わたしは疑っていません。

 

 

2014-04-15

 

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