わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「傷つかない私」

これも別の非公開さんからの質問ですが、公開しても大丈夫ですよね。
なお、質問は順次お答えして行きますので、辛抱強くお待ち願います。
また、期待した回答でなくても、勘弁して頂きたく思います。


> 花岡さん
いつも記事を拝見しております。

これまで様々な本を読んできました。
特にプンジャジ、ガンガジの内容には感銘を受けました。

思考にとらわれ自己を責めた時、自分の中に何も傷つかない嘘空のような意識に気づきました。これは今までずっと離れることのない私そのものであると感じました。
しかし、ワンネスは感じられませんでした。

質問はこれが花岡さんの言うものなのかどうかということです。
よろしくお願いします。



自己を責めた時、というか、自己を責めるために自己を検証する必要があって、自己そのものを観たのですね。

それで、観ている立場。
この立場にある私、これは今までいつだってここにあって、いつもこれだった、と気づいたのでしょうか?

そうであるなら、それはガンガジの言う「静寂」の中なのかも知れませんね。
ガンガジは、そういう誘導が得意なようです。

思考に捉われて、にっちもさっちも状態の自我から、そこに気づいたときは、「あ、こんなのがあったんだ?」って思いますよね。
常に思考のノイズに虐められ、「わたし、わたし」と主張する、あるいは「わたしを責める」のを止められなかった人には、喜ばしい気づきでしょう。

それはもちろん、今までずっと離れることのなかった、あなたの「私そのもの」ですが、「私そのもの」はそれだけではありません。
そこはたぶん、大きさは感じないにしても、「大きく」も感じられないと思います。

「そこに限定されたそれ」、のような感覚ではないでしょうか?

そこ、その場所でワンネスを感じる事はないと思います。

ワンネス感覚は、すべてが離れてはいなくて、宇宙のどこまでもがひとつの全てであり、それは「わたし以外ではない」し、「わたしがそれだ」という、「宇宙即我」の感覚(境地)です。

しかし、そうだからと言って、何かが目覚めたとか悟ったとか言う事でもありません。

ただ、そういう事に気づいただけなのです。

そんな事は、パパジもガンガジも、当然わかっていたに違いないと思います。
なぜなら、あのパパジの子供みたいな笑顔、あれはそこを通り越して行かなければ、あれほどの純粋さ、そのオーラが出て来はしないと思うからです。

我々が悟らなければならないのは、「この愛」と「この愛を発する根源」です。
それが、なんと清らかで尊く、我々をいつでも慈しんでくれていたのかと、思い知る事です。
また、それら一切と、「わたし」は、不可分であり、その中に在るという事です。
その愛の故に、自らも愛するのだと知るのです。

その時、限られた宇宙と言う範囲が夢の中にあり、夢の中に自我の「わたし」が住んでいる事に納得が行くのです。

またそれは、無くてもいい夢でも、無ければならない夢でもなく、体験するために与えられた夢であり、自我そのものがイメージし、意味づけて行って、結局は、まんまと根源の意図の通りの夢を楽しんでしまう、という夢なのだと思うのです。

苦しみも、悲しみも、結局は楽しんでいたのだと、最後の最後には気づいて、大笑いしたり、感謝の故に泣いてしまったり、そのような夢なのだと思うのです。

それだから、自我は抹殺する対象ではないのだと知らなくてはなりません。
それあっての、夢であり、とにかくそれによって体験しない事には、意味が無いという事です。

どのような「わたし」も許して、愛する。
それは、どのような「誰でも」を許して、愛する事です。

どのような起きた事も、起きる事も、許し、執着しない事です。

さあ、気づいたその「静寂」から更にその先に、あなたは向えるでしょうか。
静寂を泳ぎ、その先にある、彼岸に行けるでしょうか。

どうであるかはわかりませんが、その「静寂」に気づいた者は、そう出来るのです。

どうすればそう出来る?

質問者はそこまで要求してはいませんが、言わせてもらいます。

その「静寂」に入るなら、そこは何でも捨てられる場所なのです。
自我とか思考から、少し距離をおいて観る事ができる場所だから、落ち着いて検証できるからです。

徹底的に自我を検証してください。
自我そのものを捨てる事は不可能ですので、それに付着している粘着物を取り除くのです。

つまり、利己的なもの、そういう不純物を離していき、出来る限り純粋な者として在ろうという姿勢を持ってください。
大切なものが、透過して届くように、自己浄化をするのは大切です。

利己的なものに気づき、だからと言ってそれを悪と決めつけるのでもなく、これからはもう要らないものとして、鳥かごから小鳥が飛び立っていくように逃がしてあげてください。

日常に於いては利己的なものは戦いの武器と成り得ますが、落ち着いて、もう戦う必要などないのだと知り、武器を持つ事をせず、過ごしてください。

傷つくのは利己的なものが反発反応していたのであって、「わたし」が傷ついていたのではありません。
利己的なものが生み出す執着を観て、それに従わず、潔い、落ち着いた立場を保ってください。

例えば、あなたが無一文であったとしても、路上に落ちている一万円札が自分のもので無いのであれば、自分のものとして拾ってはいけません。
それはたぶん、他の不幸な人のもの、なのでしょうから。

また、善いと思う事をする者であって、それを誰にも目撃されないよう、それによって賞賛を得る者でないようにしなければいけません。

世の中に修行というものがあるのだとするなら、それは滝行でも座禅でも祭壇への礼拝でもマントラを唱える事でもなく、ただ清らかな行為に生きる事だと受け止めてください。

そのように、自分の真我に、神に、恥じない自分で居られるよう、誇れる自分であるよう、磨き続けるのです。

そうであれば、あなたは幼子のような、天真な者に変容するでしょう。
あたかも、泥に汚れた衣服を脱ぎ捨てるように。

誰の心も迷っているのを知って、弱いのを知って、咎める事をせず、人とは途上に於いてはそういうものだと知って、許せる者となってください。

他者の幸せを、自分の幸せと同じように喜べる者となってください。

そうである者が、導かれないはずが無いのです。
見返りを求めない真実の愛を発するあの根源のほうから、あなたを導いてくれます。

それは、あなたの中に在って、恩寵を与えたくて与えたくて、しょうがないのです。
我々が、それを頂くだけの清らかな者と成れなかっただけの事です。

いま、「静寂」に気づいたなら、そこからスタートできます。

日常を、まるで生まれ変わったかのように生きてください。
ワンネスの感覚は、いずれ味わうでしょう。
世界が、まるで新しいものに変わったように感じるでしょう。

快活に、明るく、笑顔で、誇れる自分を、清らかな自分を、その姿勢で生きてください。

驚く事が、起こると思いますよ。

神を賛美せずにはおれない事が。

2014-04-17

 

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