わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

2015-10-01から1ヶ月間の記事一覧

どん底にこだわらない 花岡修平 「真我が目覚める時」

どん底にこだわらない 私の体験を聞いた人は、みなさん、同じようなことを言う。 そういう人生のどん底を経験しないと、自我の明け渡しは不可能なのですか? 自分には耐える自信がない。 わたしは、そんな苦しみを味わうことなく悟りたい。 瞑想で悟ると聞き…

真我・ゴム手袋の比喩 花岡修平 「真我が目覚める時」

真我・ゴム手袋の比喩 自我に現れる世界を我々はリアルな世界と思っています。 ところが考えてみると、誰もがいずれ臨終を迎え、この身体を失い、 このリアルな現実さえ手放してしまいます。 そうであるなら、これは確かな真実であると言えるでしょうか? 真…

やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ(断片) 花岡修平 「真我が目覚める時」

*この記事は花岡さんの記事の全文ではない。私が自分にとって必要と考えた部分のみを抜粋して保存しておいたからだ。 やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ だれが、この世界、宇宙は現実であって、 これ以外の世界はないと捉えるでしょう。 マインドの思考…

結局最後は明け渡しです 花岡修平 「真我が目覚める時」

結局、最後は、明け渡しです 真我が目覚めていくプロセスには、様々なアプローチがあると思います。 修業という力技もあれば、神への純粋な憧れから起こる場合もあり、 また、どうにもならない苦悩と直面し、その放擲によって目覚める場合も あるでしょう。 …

目覚め 花岡修平 「真我が目覚める時」

目覚め わたしはかつて、浄土真宗は、なんて自分に都合のいい身勝手な考え方 をしているんだろうって思っていました。他力?あなたまかせでいいの? 人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。 ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みた…

運命に流される 花岡修平「真我が目覚める時」

運命に流される 運命に流される。 気づけば、それは、 なにも間違っていはなかった。 人生に苦悩する。 対人関係、仕事関係、不運の連続。 なんで、いつもこうなんだろう。 なにが一体間違っているんだろう。 あの時、ああすれば、、、、こうすれば、、、、…

「これ!」は「これ!」です 花岡修平 「真我が目覚める時」

「これ!」は「これ!」です 我々は既にすべてが与えられて、自らの意識にそのすべてを展開しています。 それがつまり、生まれたという事です。 宇宙であろうが、人生であろうが、あらゆるものは既に与えられ、 展開されています。 既に与えられているすべて…

執着・わたしのもの 花岡修平 「真我が目覚める時」

執着・わたしのもの わたしのものなど、何一つ無い。なぜなら、全てがわたしのものだからだ。このことがわかるでしょうか。全てはわたしの意識に、わたしの源泉つまり、絶対本質の一元から二元分離して投映されたものであって、それであるから全てわたしのも…

学び知るために体験は現れる 花岡修平 「真我が目覚める時」

学び知るために体験は現れる 起こる事すべてに意味がある。意味があるからこそ起こるとも言えるのです。それらは偶然が交錯して起こるのではなく、 緻密に設計され尽くした出来事の連続なのです。自分が置かれていく状況。そしてそこで起こる出来事。それら…

伝えてあげられない悔しさは、寂しさでもあります 花岡修平 「真我が目覚める時」

伝えてあげられない悔しさは、寂しさでもあります どうすれば伝えられるでしょう。 この自由な在り方、生き方を。何にも捉われない、拘らない、自己を手放し、完全に受け入れる、 この自由な生き方を。 この楽な生き方を、解放された喜びを、どうすれば伝え…

ハートが開く  花岡修平 「真我が目覚める時」

ハートが開く あの瞬間。 サバイバルを放棄し、自我という牢獄に存在するあらゆるものを手放し、 内なる神、源泉、真我にシフトした時現れた、この胸のハートの振動。 第四のチャクラが、この聖なる場所が開かれたときに溢れ出た例えよう のない至福と解放感…

わたしが在ることの不思議 花岡修平 「真我が目覚める時」

わたしが在ることの不思議 「わたしが在る。」 この疑いようもない「在る」という事実が、 どうしてあり得るのでしょうか。 つまり、自分はなぜ存在しているのだろうか?という疑問です。 その意味や目的のことを言っているのではありません。 存在そのもの…

花岡修平 「真我が目覚める時」

数年前、「真我が目覚める時」というブログに出会った。 自らの覚醒と悟りの体験を綴ったブログで、作者の名は花岡修平。 一読して本物だとわかる稀有なオーラを放ち、真摯に覚醒を求める 人たちのコメントで溢れていた。 しかし、今年の夏に訪問したら、す…