わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「これ!」は「これ!」です 花岡修平 「真我が目覚める時」

「これ!」は「これ!」です

 

我々は既にすべてが与えられて、自らの意識にそのすべてを展開しています。

それがつまり、生まれたという事です。

 

宇宙であろうが、人生であろうが、あらゆるものは既に与えられ、

展開されています。

 

既に与えられているすべてのうちの、特定のいくつかを、

それだけ集めようとしても、既にすべては与えられてしまっています。

既に与えられているすべてのうちの、特定のなにかを、拒否しようとしても、

既にすべては与えられてしまっています。

 

我々は苦しみの故に恐れの故に、未来に願望しますが、その苦しみも恐れも

その願望も、望んだから与えられ、それが次々に成就して行ってるに過ぎません。

 

必要なものは与えられるし、必要でないものは与えられようがありません。

必要なものは、必ずしも欲しいものと同義ではないかも知れません。

 

時に願望が意味を成さないのは、そういうわけです。

 

幼い時の初恋は結ばれるためではなく、味わう事で結ばれる事とは違う別の

重要な意味をもっていたから結ばれなかったのでしょう。

そのような体験すべき事を体験させられ、つまり示される方向に向かって、

我々は「わたし」が行為していると疑うことなく生きてきた「今」の連続が

今の「今」です。

 

既に物語は書き下ろされたのです。

 

だからと言って、悲観的になる必要もありません。

見方を誤っているだけで、それは悲観すべき事ではありません。

 

今苦境に立っている人は、その中で体験し学ぶはずのなにかが、

そこに潜在されているから今そうであるだけです。

 

つまりひょっとしたら、今、千載一遇のチャンスが巡り来てるやも知れないのです。

それの意味が、目的が見つからない人でも、見つかるように運ばれます。

また見つからないからといって、嘆く必要もありませんし、

見つからないでもいいのです。

 

どうしたって、現象事象には目的があり、その目的こそが因果の因なのです。

果こそが因であって、果なくして因があるのは不自然ではないでしょうか。

 

その成就のために物事は運ばれ、それは始祖にあるなにかが因となっている

ということではありません。

成就がまずあって世界は流れ運ばれる。

それであるなら、それは、成就されないはずがある訳ないじゃないですか。

 

我々は起こる事の原因を過去に探しがちです。

しかし、それは原因を見つける度に、原因の更に原因を突き止めなければ証し

にはならず、無駄な努力であり、要点を外していることは明らかです。

 

何かによって違う何かが現れるなら、違う何かが現れるために

元の何かがあったのだとするほうが、考察も自然ではないでしょうか。

 

人それぞれに物語は流れて行き、人の物語が他の人に関り、関わられることで、

それぞれに整合された、それぞれが主人公の物語として、それぞれの意識の中

に展開されていきます。

 

自ら学ぶことが、他の人の学びを助け、他の人の学びが、

同時に自らの学びのために不可欠でもあるのです。

 

そのような事が、それぞれの何かの成就に向かって、

それぞれの意識の中に展開されていきます。

 

意識に展開されるすべて。

つまりそれは、あなたの中にすべてが在るという事です。

 

その中の特定の部位を示して、「これがわたし」だと我々は主張します。

つまり、「わたし」が直接的に可動できる身体、

「わたしだけ」が見抜ける思考、あるいは記憶。

そのように限定された(限定してしまっている)範囲だけをかいつまんで

「これがわたし」と言い張ります。

 

しかし、どうでしょう。

あなたの「わたし」と、あなたの「世界・宇宙」は、あなたの認識であり、

あなた以外の誰に依るものでもありません。

 

あなたの中に、あなたの意識の中に、あなたは空間をつくり、

時間という距離をつくり、程よい時間差ごとに星々を置いたのです。

 

全部が内側であるにも関わらず、その内側に外側をつくり出しているのです。

 

直接的に意識可動する身体を「わたし」と固定し、その皮膚から連なる空間

と時間を宇宙とするその分離を、「わたし」がつくり出しているのです。

 

あなたの意識にすべてが展開されているなら、それは身体であろうが、

宇宙であろうが、空間であろうが、時間であろうが、すべてあなたそのものです。

 

そうであるなら、取り立てて「わたしのもの」と「わたし以外」

を区別する必要もなく、すべてがあなたそのものであり、

またそうであるなら、すべてがあなたのものでなくても、

あなたのものであっても、どうだっていいことになります。

 

「わたし」が主張されるから、分離が起こるのです。

ほんとうは、全部があなたです。

宇宙を超えた、あなたが在るのです。

「わたし」と比較すらできない程の、大きなあなたが在るのです。

それは大きさなどと表現できないすべてのことです。

 

それがあなたであることは、紛れもない事実であるのに、

あなたは「わたし」という小さな主人公と外側をつくりだし、

実体のあなたに還るまでの物語を彼に与えたのです。

 

あなたの中の「わたし」が、それを楽しめるようにです。

 

今、苦にあっても、後には「あの時は苦しかった」という記憶ですら、

「あの時は苦を存分に楽しんだ」と言うように変わるでしょう。

 

その大きなあなた、絶対一元である「これ!」こそが実体であり、

いつかあなたは「これ!」で在ることに、満足することでしょう。

「これ!・・・」。

「これ!」がわかることが必要です。

「これ!」はすべてであり、わたしであり、あなたであり、大いなる一元です。

 

「これ!」は、他に言いようがありません。

言いようがないから、真我とか神とか源泉とか、まあ、好き勝手に

言ってもいいのですが、どれも言いえておらず、「これ!」は「これ!」です。

 

どんな人生でも、このことがわかるなら、楽しめる人生です。

残念ながら、あなたがわかるしかありません。

 

誰かわからせてくれる人はいるでしょうか。

ほんとうは、みんながそのために、あなたに関わっているのかも知れません。

ほんとうは、人生は誰にとっても、いいものであるに違いないのです。