わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

執着・わたしのもの 花岡修平 「真我が目覚める時」

執着・わたしのもの

 

わたしのものなど、何一つ無い。
なぜなら、全てがわたしのものだからだ。

このことがわかるでしょうか。

全てはわたしの意識に、わたしの源泉つまり、絶対本質の一元から二元分離して投映されたものであって、それであるから全てわたしのものであるけれど、そこに執着すべき「わたしのもの」など、何一つ無いのだという事です。

それら置かれたものたちは、ただ具現されただけのものであり、それ自体に実体は無いのです。

我々はそのいちいちに、形を見て、名前を付け、分離された固有のものとして見て、それぞれに意味づけをします。
そうして自分の尺度に照らして価値を決定して行きます。

それをしているのが、意識の中の「わたし」という自己。
つまり、自我の事であり、作り出し、あるいは押し付けられ、刷り込まれた価値観によって、人は互いに影響し合い、苦楽を味わって行きます。

人は意味づける者であり、また全ての人が一致した意味づけをしている訳ではありません。

それぞれに価値基準が違うという事です。
持っている尺度、その目盛が違うという事です。

そうであるから人は互いにぶつかり合い、反発、嫌悪、容認、許し、受け入れ、そのように物語をそれぞれが主人公となって展開されていきます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、「わたし」という意識がありません。
彼にあるのは、ただ感性であり、それは心地よく満足しているか、あるいはその逆かでしかありません。
それは思考によるものではなく、純粋な感性によるものです。

彼は50カラットのダイヤモンドでさえ、価値を決定する尺度を持たず、手にするや否や口に入れて味を確かめ、呑みこむか放ってしまうかのどちらかでしょう。

ダイヤモンドの硬度は工業生産的に有効な価値があるのは明らかです。
しかし、人はその希少性に価値を作り出し、虚栄を満たすものとして、役に立たない価値観を置いてしまいます。

それは、「わたしのもの」という執着だけが肥大して、他の感性が育たず、自我は歪んでしまっているのです。

人にとって何が最も大切な事でしょう。

それは悟りでもなく、真我の覚醒でもなく、智慧の誘現でもなく、人としての完成ではないでしょうか。

つまり、全てのうちの「人」としての限定された部分、「自我」の完成を成就する事こそ、尊く、誉なのではないでしょうか。

我々が自我を脇に置き、真我なる自己として気づけないのは、自我が未熟で歪(いびつ)だから自我から脱却できないのです。
つまり、執着が自我それ自体を執着し、何事であっても自我の指令によって為していくしかないのです。

その自我の未熟な部分によって、人は様々です。
つまり、他の未熟な部分に比べて何が肥大しているかによって、粗暴であったり、盗む者であったり、恨み憎しむ者であったりするし、またそのような負の部分を持ちながらも、ある時は人に慈悲を垂れたり、優れた能力を発揮したりもします。

正と負が拮抗しないから、暴力はいけないと知っていても、抑えきれず人を傷つけてしまいます。
交感神経と副交感神経が相互に補足し合わないなら、やっかいな病気を抱えてしまうのと同じです。

自我が全く無いか、あるいは自我を持ち、そこに住んでいる者であっても、その要素が均等に歪なく円いものであるならば、執着や拘りや自己主張は現れて来ないでしょう。
清らかな赤ちゃんのように。

自我の完成とは、その大きさが成長する事では無く、歪が修正されてバランスの良いものになるという事です。

自我は悪いものではなく、不完全であるから悪いものとして誤認されるのです。

人生物語とは、不完全な自我同士が互いに関わり影響しあって、その歪を補正し合って行く物語でもあるのです。

それだから、人生は学びなのだ、体験する事が知る事だと、何度も言うのです。

自我の完成に至るなら、執着なく現れを見る事ができます。

そのとき、「わたしのもの」など何も無かったと気づくでしょう。
執着するという要素が発動しないからです。
同時に、この自我に現れる全てが、何一つ欠く事無く、「わたしのもの」だったのだと気づくでしょう。

そうであるなら、あらゆるものが愛おしく、あらゆるものが自分を育んでくれるものであったと知るのです。

そのとき、必ずや真実の愛、つまり神のみこころと、それへの感謝に満たされるに違いないのです。

いかがでしょうか。
全てが「わたしのもの」であるなら、限定して何かを「わたしのもの」と主張する理由が何処にあるでしょう。
主張しなくても、「わたしのもの」です。
そうであるなら、「わたしのもの」であろうが、なかろうが、どうだっていい事です。
それらはただ現れであり、実体がありません。

そうであるなら、「わたしのもの」であるはずがないのです。
なぜなら、それらはただ現れであり、実体が無いからです。

わたしは不思議な事を言ってるでしょうか?

 

2013-10-09

 

 

 

*コメント欄での問答をつけ加えておいた。(2019-07-07記) 

 【読者ER】自我への向き合い方

非常にタイミングの良い記事を読まさせていただきました。 
ありがとうございます。 

自我は本当にやっかいで、何とかなくしたいと思っているものです。 

私の場合、自我がどんどん出てきて中々収まりがつきません。 
自我が何か主張しているなと、それを現れとして気づいていても、反応が起こっている場合、その反応が出てくる原因などを考え、きちんと対処した方が良いものでしょうか?それとも放って忘れてしまって良いでしょうか? 

執着しないという事であれば、放って忘れてしまった方が良いのかなと思いましたが、反応のパターンなどもあると感じているのですが、それに対してきちんと取り組んだ方が良いものでしょうか? 

また、自我の完成はどのような状況でしょうか? 
出続けるけど、反応しなくなるのか 
出なくなるのか 
いずれなのでしょうか? 

出るものが出尽くしても生活態度尖り始めたり、 
反応が無い状態でも、ある出来事を境に 
、反応し始めるという事がありますでしょうか? 

 

 

【花岡】

ERさん、はじめまして。 

自我は無くせるものではありません。 
人が生きていく、つまり日常に生きていくための根本ですので、自我なくして生きて行く事は不可能です。 

あり得ない例ですが、幼い時から地球に人間は自分一人だけしか生存していないなら、好きなようにやりたい放題やってもいい訳です。 
自我を批判する何者もそこにはいません。 
いませんし、そこに自我は無いのです。(あるのですが、自我と呼ぶべきではないという事) 
自我云々する意味が、その状況では存在しないからです。 
それは、あるがまま、自分が在るだけです。 
自他の関係がどこにも見当たらないからです。 

自我が取り沙汰されるのは、自分以外に誰かが居る、生存している状況。 
そこに自他の分離が起こり、自と断定し、他と断定する者が、自我という事になります。 
自と他との関わりで自我は要素のどこかを刺激され、反応し感情が動き出します。 

その動きが、様々な行動を起こし、トラブルを招き入れます。 
迷いや、苦悩が生じます。 

自我があるとき、必ず自我を監視する者が存在します 
それは、道徳やら、マナーやら、善悪の基準やら、常識やら、判断材料を持っていて、自我の成長と共に育ってきました。 
自分の中の天使と悪魔というような言われ方をします。 

悪魔はこうしたいと言うけれど、天使がそれはいけない事だと言っている、だけど自分は悪魔の言うとおりやってしまいたくてやってしまう、そうして天使は罪の意識に苛む。 

みたいな事を、人は思考と感情と想念の働きでやっている訳です。 

そういう事の一切の顛末を観察するなら、苦悩や迷いがなぜ生じているのかがわかる訳です。 
自我が執着するものを解き放す、あるいは、自分を苛むものを解き放す、または作り出さない、そのために自我と思考に気づいている事が有効な訳です。 

きちんと対処するとか、忘れてしまうとか、どちらが当たっているかと言えるものでもなく、それは解決されるのがいいのです。 
解決されるというのは、答えが出るという事で、その答えとは、何も問題なく起こる事が起こった、そしてこれからも起こる事が起こって行くという理解です。 
何が迷いを起こしたか、それがわかり、しかも起こる事になっていたとわかるなら、たちどころに迷いは消えます。 
そのような一切が、みこころ、によって運行されて行くと言う理解です。 

自我の完成とは、要素が反応しても、感情をもちながら感情が騒ぎ出さない、悪魔も天使も騒ぎ出さない、みこころを受け入れ全てを許せる、執着を解き放った、主語を持たない、真実の愛を浴びて至福の中に留まる者のそれであるのではないかと思うのです。 

その時、自我が消滅しているかと言えば、消滅はなく、人として生きるための極めて希薄な自我だけがあるのだと思うのです。 

そして、さらなる完成は、世界を創り出すのを止めた時、真我への統合として終わるのかも知れません。 

しかし、そのような事を考える必要はありません。 
今、生きているそのままが、みこころによって運ばれているなら、自我とすったもんだ、やっていても、それはそれでいいのではないですか? 

なんであれ、そのように運ばれているのです。 
苦悩や迷いがあっても、実はしっかりとやっているのです。 

わたしは体験から学びました。 
苦悩も迷いも、ああ、わたしはしっかり、それを楽しんだと、思っています。 
その時が来ないと、それがわからないというのだけが、人にとって残念だと少し思います。 

 

【読者ER】

何度も読み返し、するめのように何度も味あわさせていただきました。これからも読み直すと思います。 
すごく整理され、スッキリしました。 
ありがとうございます! 

>何も問題なく起こる事が起こった、そしてこれからも起こる事が起こって行くという理解です。 

これの理解の上で、気づき続けたいと思います。 
気づいた上で、起きた事は真我にとっては何も問題ないし、起こるべく起こっているし、それはただ起こっただけであり、それに思考で色々考えて真我から離れるよりも、ただ起きたことを受け入れ流すという姿勢でいたいと思います。 

>今、生きているそのままが、みこころによって運ばれているなら、自我とすったもんだ、やっていても、それはそれでいいのではないですか? 

その先に、自我の完成があろうとなかろうと 
それも御心次第という理解により自我、マインドが透明になればなるほど純粋になるほど、真我と一体化していくという理解をいたしました。 
自我、マインドの透明化作業、純粋化作業、真我を味わう事は、生きている間の終わりなき旅であり、それが生きている間に限った生の醍醐味なのかなと思いました。 

 

 【花岡】

なんと見事な理解でしょう。 

なんて喜ばしい事でしょう。 

先が楽しみな人物です。 

 

 【読者IS】初めまして

花岡さん、初めまして。ISと申します。ブログを拝見して、今回、質問したいことがあってコメントさせていただきました。 

それは、非二元に、あるがままに目覚めた後、二元のこの世で生きていけるのかということです。 

例えば、営業マンが目覚めたとして、その後もノルマ達成に邁進したり、自社の製品やサービスを売り込んだりできるのでしょうか?それとも勝ち負けへのこだわりが消えてしまうのでしょうか? 

また、こだわりの味で売っているラーメン店主が目覚めたら店の営業はどうなるのでしょうか?味がぶれても”あるがまま”、これまでなら捨てていたスープでもお客に提供してしまうようになるのでしょうか?お客が減っても焦ることもなくなり、”あるがまま”で廃業しても気にならなくなるのでしょうか? 

営業マンはもはや営業を勤め上げることができなくなり職を失うことになりそうです。ラーメン店主は二元に生きている家族との溝が深まりそうです。離婚となっても慰謝料や養育費を支払うことも難しそうです。 

およそこの世が勝負や善悪や正誤といった二元的価値観で埋め尽くされている中で目覚め後、どう折り合いがつくのか疑問です。 

あのラマナ・マハルシが目覚めたとき、肉体や生命維持にに無頓着で連れ出されなければ危なかったり、その後も長い年月にわたって沈黙の状態にあったと何かで読んだことがあります(正確ではないかもしれませんが)彼の場合、三昧にあったので例としては極端ではありますが、程度の差はあれど社会性が破綻すると思うのです。 

端的に言って、生きていけなくなると思うのです。 

質問ばかりのコメントになってしまい申し訳ありません。目覚め後の生活が目覚めていない私にはイメージでしかない為、こんな妙な疑問を抱いてしまいました。ご回答いただけたら幸いです。 

 

【花岡】

ISさん、はじめまして。 

二元は根本存在の及ぼす二元化作用によって現れ、それに個々の自我(エゴ)が個々の尺度で意味づけして捉えています。 

人がその理を観るなら、多くの人のそのような意味づけに拘る事無く、あるがままを許し、受け入れ、かつ執着する事が無いでしょう。 

営業マンが目覚めるなら、ノルマ達成にも売り込みにも拘る事無く、勝つも負けるも無く、生業としてそれをこなしてしまうでしょう。 
それは、自己の都合によらず、ただ家族、友人、地域の利に周囲が関心があり、その環境を受け入れるからそうするでしょう。 
目覚めた人は、何事にも執着する事無く、人々が喜ぶ事を成し、悲しむ事をせぬように生きるだけです。 
人々に必要な事を、利己によらず、為せることは為すでしょう。 

ラーメン店の店主は、あるがまま、捨てる部位を捨てるでしょう。 
あるがまま、廃業せねばならないなら、そうするでしょう。 
しかし、そもそも、あるがままをわかっているでしょうか。 
人々の利欲や、観念概念、個々の尺度に捉われず、運ばれるままそれを許し、受け入れて生きる事です。 
運ばれるままとは、そのように生きる定めの事です。 
良い味を提供して喜んでもらう、その事が定められているなら、そのままそのようにするでしょう。 
それがラーメン店の廃業を意味する事はあり得ません。 
思考が疑問を作り出すのは当然の事ですが、思考がありもしない意味づけをしないなら、わかるかと思います。 

ラマナに何があった、何が起こったという事から、その後の彼が廃人同様の生涯を閉じたという事実はなく、その後の彼はご存じのように、すこぶる元気に原始アシュラムにおいて、訪れる人に教えを説いていたのですから、何も問題はありません。 
何に無頓着だから危ないのではなく、それはどうであれ、なるようになって行く、それだけの事です。 

生きていけない立場に置かれた人は、もちろん生きて行かないでしょうが、それにどのような問題があるのでしょう。 
人はどうであれ、生きていけなくなるその時が、寿命なのですから。 

目覚めの後の生活が目覚めていない私・・・この事が理解できません。 
この部分は、意味を伝える文として破綻せず成り立つでしょうか? 
一度目覚めたけれど、相変わらず自我に翻弄されているという事でしょうか? 

目覚めたならその中(内側)にあって、世間(外側)に頓着せず、世間を容認して生きて行けばいいのではないでしょうか。 

目覚めは、あなたと、あなたの真我との、関係でしかないのですから。 
つまり、あなたの意識に現れた世界に、意味づけせずあるがままである事を許していなければ、目覚めたとは言えないのではないでしょうか。 
後は、現す者が、いかようにも面倒を見てくれることでしょう。 
内側から見る外側が、いかに愛に満ちた素晴らしい輝きに満ちた世界であるかを、どうして見ないのでしょうか。 
ぜひ、それも見て欲しく思います。 

 

 【読者IS】

早速、お返事いただきありがとうございます。 

じっくりと拝読しましたが、どうしても頭で理解しようとしてしまい、なかなか腑に落ちないのがもどかしいです。 

あるがままが、定めを許し、受け入れることとすると生きるのが非常につらく思えてしまいます。なぜかは自分でもよく分からないのですが、何かもやもやしたものが感じられるのです。 

今回このような質問をしましたのも、「ただ見る者」である、「スクリーンや背景」である時は、自分がいなくなるのですが、同時に話すこともその場に関わることもできなくなってしまうからです。非二元に溶け込む(?)と、離人症のような、傍目にも「ちょっと…」という感じになっていると思われます。それ以外の時は、自我にどっぷり浸かっていて二元的価値観に振り回されています。 

自分が「見る者」だと認識しているものが、実はそうではない何か別の意識状態なのが原因だろうとは思うのですが、自分では確かめようがないのでお手上げといった感じです。 


「目覚め後の生活が目覚めていない私にはイメージでしかない」という所は、分かりづらいですね。失礼しました。 

「私は目覚めていないので、目覚め後の生活がどのようなものなのかは、私の想像でしかない」という意味です。まだ、言葉足らずな感がありますが…… 

これからも更新を楽しみにしています。ありがとうございました。 

 

【花岡】【非公開の質問への返信】 (*質問内容はわからない)

えっとですね。 
捨て去るには、いきなりは無理だと思うんです。 

捨て去るには、捨て去れるだけの合理的な理解っていうか、真実捨て去ってもいいのだという事がわからないとダメだと思うんです。 

捨てきれない執着があるうちは、その執着と共に生きて行かなければならない。 

捨て去ってもいいものなんだって理解に及べば、それは捨てられる訳です。 

だから、捨て去れないで持っていても、焦る事も思い煩う事もありません。 

焦りや煩いがあるから、つまりそれは執着な訳です。 

流されるように流され、運ばれるように運ばれ、その中でそういう理解の場面、チャンスは巡ってくるものです。 

捨て去れば、受け入れられます。 

それは、苦という認識が変わってしまうから、受け入れられます。 

苦ではなく、受け入れても大丈夫なんだという、解放が起こるのです。