わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

ハートが開く  花岡修平 「真我が目覚める時」

ハートが開く

 

あの瞬間。

 

サバイバルを放棄し、自我という牢獄に存在するあらゆるものを手放し、

内なる神、源泉、真我にシフトした時現れた、この胸のハートの振動。

 

第四のチャクラが、この聖なる場所が開かれたときに溢れ出た例えよう

のない至福と解放感。

知ることのなかった真実の愛に満たされた喜び。

暖かな安らぎの、まあるいオーヴのような、、、、

 

それは、内なる神を絶対に信頼しきり、

自分のすべてを明け渡した結果起こったこと。

 

自我の暗示にかかり、かたくなに掴んでいた虚偽の価値観が溶け出す。

 

それは、いわゆる「こころ」というものとは違う。

「変化しない永遠」につながる場所。

 

「こころ」というのは、受容器官が受ける刺激情報や、

周りから押し付けられた価値観で様々に変化していく。

向上心、天心、あるいは下心、疑心、虚栄心など、文字でも表される。

プラスとマイナスにカテゴライズできるように常に変化する。

 

この胸の、この場所から溢れ出るものは、「ただ在るもの」で、

変化することはない。それには、理由も条件もない。

 

ここから溢れ出る愛は、まったく理由などいらない。

見返りなど、一切望むことがない。

親子だから、夫婦だから、恋人だから、好きだから、、、、

ただ、愛であって、それ以外ではない。

 

知ることのなかった真実の愛。

それが、ハートに目覚める。

 

あらゆる過去の自分を許し、過去の誰をも許し、

過去の罪の一切を浄化させてくれる。

 

そのとき、わかってしまう。

 

何ということだろう。

神は、愛そのものだった。

真実あるのは、ただそれのみだった。

 

わたしは、その愛である神のエレメントだった。

だれもが、その要素であって、

だれ一人欠けても、それは、在ることができない。

全部でひとつだから、なにひとつ欠けても、それは、存在できない。

そして、その唯一がないことには、わたしも、だれも、無い。

 

それこそ本当の自分、真我であって、

神とわたしは、離れてはいない。

だれも離れたものではない。

 

ただ、一があるだげであって、あらゆる存在は、その一の中の、

数限りない一だった。

我々は、数を数えることができる。

しかし、どのように多くの数を数えようが、

それは、一の中の一を数えてるにすぎない。

 

38591という数を数えても、

それは、38591に仮想分解した一を数えているにすぎない。

どのように考えようが、一から抜け出すことはできない。

 

(この表現は、判りにくいかもしれない。もともと言葉では表せないのだから)

 

「わたし」というこの存在は、錯覚だった。

自分という主体も、世界という客体も、すべては、幻だった。

しかし、同時に、その幻の大きな存在理由も知ることができる。

それは、愛ゆえの表現だった。

 

ああ、じつに、

その幻さえも、神の臨在による現れだった。

しかも、わかってくることが、次から次へと、、、、、

溢れてくる。

 

パニアパラミタ、、、、内在された偉大なる智慧

 

これのことだろうか、、、、