わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

神とリンクしている 花岡修平 「真我が目覚める時」

神とリンクしている

多分、みんな自分は自由に意志を持ち、

その意思に従って行動していると思っているでしょう。


自分の意志は全く自由だと思っているのです。

「わたしがやっている」と思うのです。

でも、自分の意志どおりに事が運ぶ事は、あるでしょうか?

 

いくら理想を掲げても、そうなっては行かない。

お金たくさん欲しいと思っても、そんなにうまくは行かない。

病気になんかなりたくない、と思っても、病気になって行く。

もっと美人に、イケメンに生まれたかった・・・

けど、そうじゃない(これは単なる憶測です)

 

結局、自分の意志は、反映されてなどいないではないでしょうか?

自分の行動、意思、それが何に基づいているのか・・・

 

それは、欲・願望・虚栄、そのようなものによって湧いてきていませんか?

しかも、そんな事さえ自分は意識する事無く、自動的に為されていくのです。

 

コンビニでお弁当を買う時でさえ、意思が選んでいるのではなく、欲が選んでいるのです。

しっかりと欲によって行動意思を起こしているのに、その事に気づく事がないのです。

 

 

また、意識的に強烈に「自分がやっているんだ」と思い続けても、同じです。

思い通りに行きません。

何一つ、自分を含めた世界のあれこれを、コントロールできないのです。

 

 

意思が欲によって決定選択されようとも、それは全く悪いのではありません。

世界の経済は、欲を満たすという原理原則に基づいて、見事に成り立ってるのです。

それが結局は、人々の生活の用に供しているのです。

 

起こさせる根本によって起こる事が起こり、

それに反応する素因を人々が一様に持っていて反応し、

それを自分の意志だと疑わず

それに従って「わたしがやっている」と思い為し行動させられる。


なんと見事な神の御業でしょう。


欲とはつまり、人が生きるための大切なコントロール装置であり、

それがあるから生きていたいのです。


しかし、そんな事を人は深く考えません。

それはどんな事も「わたしがやっている」と思い為す根本的暗示に

皆がかかっているからです。

それだから、とてもスムーズに、「わたしがやっている」と思える

社会活動が流れて行くのです。

 

たとえば「過剰欲」によって、犯罪や狂気が一部に起こっても、

それにうまく対応した「わたしがやっている」が現れていくのです。

 

しかし、「わたしがやっているのに」なんでこう思い通りにならないんだ・・・

という場面にもしょっちゅう向き合います。

どんな場面でも「わたしがやっている」が、基本にあるから、悩み苦しみ、

悔しい思い、悲しい思いに陥ります。

 

「わたしがやっていた」事実などほんとうは無かったのにです。

 

わたしは自由意志で行為しているという、その事が、「実は不自由そのものなのだ」と、

みなさん、いつ気づいてくれるでしょうか?


「自由意志」という観念が、まったく「不自由」を生んでいるのです。


起こる事、見える現象、社会の流れ、世界の成り立ちが全て、

神が起こしてるという真実を受け入れるのです。

 

行為者は神であって、わたしはただの道具に過ぎない。

わたしは欲によって、リモートコントロールされているだけだ。

それを、自分の自由な意思だと思い込んでいただけだ。

 

それを見事に悟ったなら、もう「自由意志」に責任など持たなくてもいいのです。

その事こそが「不自由」を「自由」に変えてくれるのです。


全て神の御業、御心、思し召しによるものであり、

生きていくための基本的欲をエゴが支配しているから見えなかったのです。


基本的欲もエゴも、神から頂きました。

それは体験から学ぶための、文房具に過ぎません。

わかったら、もう意味を成しません。


神にお返ししましょう。

欲もエゴも、すべて、神に差し出すのです。


行為者は神、それ以外は全て、神の道具。

自由意志も、それ以外の意志も、もうどうでもいい事です。


神の道具である自分を、喜んで受け入れられたら、

その時からもう、神と太い絆で結ばれます。


この身を持っていながら、いつだって神とリンクしているのです。
そのハートで神とリンクされているのです。


なんという幸せな事でしょう。

嬉しさで、顔がほころんでくるでしょう。


ハートを通して、神と相互にリンクしているのです。

それを感覚できますか?

してください。

絶対それがわかるはずです。


神はなんと偉大で素晴らしいか、

また、そのような言葉で賛美しきれない程大きな存在であるかが知れるでしょう。


「わたし」など、ただの点です。

「わたし」も含めて、全ては・・・神の中に在ったのです。