わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

あるがままに見る 花岡修平 「真我が目覚める時」

例えば散歩をしていて、道路のわきに花を見つけたとします。

しゃがんで、よく観察しようとします。

その時、その花を見る事ができるでしょうか。

あなたなら、確実にその花を、あるがまま見る事ができますか?

人がその花を発見し、見つめる時、思考が過去を呼び起こします。

記憶からそのデータを、つまり、記憶という過去のイメージを探り出し、

それを適用しようとします。

例えばそれは水仙だとします。

なんと水仙という名前を知っています。

名前はどこにあったのでしょうか。

記憶にあったものを、思考が引っ張り出してきたのです。

うちの花壇にもあるとか、水仙の様々な品種や、花言葉や、ナルシストの語源だとか、

水仙にまつわる過去の出来事や、有毒であるとか。

実に様々な思考が駆け巡ります。

人が花を見るとき、そのように見るのであれば、

その人は花をあるがまま見ているでしょうか?

その人は、まつわるイメージを見ているだけで、花を見ていないのです。

つまり、その人は今そこにある花ではなく、

意識のほとんどを過去の花に向けているのです。

なんの思考によるイメージをも適用する事無く、花を見ることができますか?

花をあるがまま、受け入れる事ができますか?

一切の思考なく、あるがまま見るなら。

花と花を見る者との間に、距離を感覚していますか?

感覚しているなら、思考があります。

花と花を見る者との間に、距離も、隙間も、時間も、空間も、

一切思考の痕跡が無いなら、それがあるがまま見ているという事です。

その時、見る者は、見られる花と異なってはいません。

その時、見る者は見られるものです。

思考がじゃまをしているだけで、ほんとうは花は、あなたの中に現れているのです。

その事を知るために、思考に気づいている必要があるのです。

気づきは思考であってはなりません。

それはただ知覚です。

思考している事も、思考していない事も気づいている必要があります。

また、それを思考で気づいているのではなく、ただ知覚があるだけで、

そういう事さえも気づいている必要があります。

さて、思考を見ている「わたし」があります。

それは事実、「わたし」が思考を見ているのでしょうか?

思考が静まり、完全に姿を消した状態で、「わたし」はあるでしょうか?

この観察を、しっかり見つめてください。

思考があり、思考を見る「わたし」がいる。

これをしっかり見つめるなら。

「わたし」という観察する者は、思考によって現されている

という事実に突き当たります。

観察される思考は、観察する者と異なってはいません。

理論としてではなく、これは実際に気づかれなければなりません。

想う事を止めても、観察者がいるうちは、それは紛れもない思考です。

観察される思考と、観察する観察者が同一である事実を、わかるでしょうか?

花を見るとき、思考なく見て、一切の判断も適用しないであるがまま見るなら、

花と観察者の間に、どのような種類の隔たりなく見るのであれば、

そこに観察者は存在しません。

その時、花はただ純粋な花であり、花はただあなたです。

観察者はいません。

これが、あの人の言う「わたしは誰か?」の答えです。

ただあなたが在る。

この事が、言葉を超えて理解されるでしょうか。

これが、別のあの人の言う「わたしは在る」の答えです。

そこに自己は肯定も否定もされません。

思考が「わたし」」を作り上げるなら、たちどころに、

あらゆるものへの分離が起こります。

見られるものと、見る者との間に、距離、時空、が現れます。

そこに否定と肯定が現れます。

つまり、矛盾がそこには横たわるのです。

思考が思考の中心を作り出しておきながら、思考の中心(観察者)は、

思考そのものを異質なものとするから、葛藤が生じます。

自己の怒りや嫉妬、欲望などを、コントロールしなければならない分離した

何かと捉えます。

見るものとみられる者の間に、それはほんとうは違うものではないのに、

矛盾を感じるのです。

それがつまり、苦悩なのでしょう。

あるがままで居る事が出来なくて、あるべき何かに変わらなければならない

と思い為すのです。

見られるものが、見る者と異なるという分離が、そのようにしてしまいます。

観察者は、ほんとうは居ないのです。

大いなる変容とは、あるべき何かになる事ではなく、あるがままに戻る事です。

赤ちゃんの無為に戻る事です。

分離がそのように、倒錯を生み出すのです。

「わたし」とは、ただ思考であり、それはそのような現れが現れているだけです。

それを物語と表現しているのです。

物語は思考によって「わたし」にとっての様々な色付けをされ、

分離した数えきれない自己の断片たちとの間に、つまり宇宙のいちいちの間に

関係を築き、めまぐるしい応答を、それぞれに完全な整合を適用しながら、

「わたし」は悩むのです。

あるがままで、居なさい。

否定も肯定もなしに、ただ、それで居なさい。

「わたし」が無いのは、恐怖ではありません。

恐怖は思考の得意分野です。

ほんとうにあるがままであるなら、恐怖はありません。

「わたし」を明け渡す、一切を許し受け入れるとは、そういう事です。

自由とはそういう事です。

それは虚無ではなく、充実した楽しみです。

ゼロではなく、ひとつです。