わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

分離はない 花岡修平 「真我が目覚める時」

分離はない

主語を使わない、あるいは、犬とか猫とか、木とか空とか雲とか、名詞を使わない。
そのような事が、何の役に立つのかと言う事を、以前申し上げました。

これは、世界に置かれた個々についての境目を消し去る事なのです。

そのような気持ちで周囲を見てみると、見える全てが全体的に、分かれずに、
あたかもひとつの全部がただ部分的に模様が違っているように見えるのです。

注意深く読んでください。一読では伝わりません。
感覚に入れなければ伝わりません。

つまり、まず全てが現れる場が用意されて、場そのものの様々な変容が模様となって
見えているという事です。

その場とはつまり、そのために費やされる程の意識の事であり、この身体も、世界の一々も、そしてこの「わたし(という観念)」も、同じ意識エネルギーを利用して現されていて、ほんとうは区分が無く、これら全てがひとつだと言う事です。


これは「あるがまま」あるものを、そのとおり「あるがまま」見ている状態です。
模様の違いには気づいても、模様の違いの境目が個々としての境目である見方は消えているのです。

全部に気づいていながら、「あるがまま」見ている状態。
全的に見ているそこに、「わたし」という特別な状態はありません。

特定の範囲を示す言葉、名前を思い浮かべたとき、そこには分離が生じます。
分離するから、区別が生じ、区別するから「わたし」が現れます。
名前は、世界を個々に区別する魔法となるのです。

それはまた、世の中(人々の営み)に摩擦(苦しみ)を生じさせる魔法でもあります。
名前で分離し、区別するから比較をしてしまいます。

比較が格差を際立たせ、それによって人々は不平等からなる不満を思うのです。

一々に名前を適用せず、全体を見て、しかも違いにも気づいている。
気づいていても、その違いによって区別しない。
あくまでも、全的に見る。

それは現れというこの今を、「あるがまま」見ている姿であって、それは全く赤ちゃんの見方です。
赤ちゃんも個々の形や色の違いは気づいているのでしょうが、個々という見方を知るはずもありません。

なぜなら、言葉も名前も知らないからです。
まったく、現れを、現れるがまま見て、名前を付けず、世界と「わたし」という分離もなく、素直にただ見ているだけです。

そのような赤ちゃんには、「わたし」はありません。
あるのは、見ている状態だけがあるのです。
在る事に「気づいている」だけです。
価値的に断定もせず、裁きもしません。

嬉しく快適であれば笑い、そうでなければ泣いている。
始めてみる世界は、彼にとって驚きでしょう。
五感の感覚は新鮮でしょう。

そのように世界を見て見なさい。

我々だって、一瞬一瞬が、初めて見る世界なのです。
今見ている世界は、さっきの世界ではありません。
それは既に、記憶に落ちて消えてしまいました。
この今の世界が新鮮でないはずがありません。
新鮮でないのは、過去の、消え去った世界を見ているのです。
それは、記憶側のイメージを適用して見ているだけで、今を見ていません。

この今、初めて見る世界を、全的に享受するのです。
美しくないはずがありません。
輝いていないはずがありません。

しかし、美しくても「美しい」とかも思わず、ただ感動しなければいけません。
言葉を思い浮かべる事無く、ただ世界に感動してみるのです。

それができるだけの天真さを、誰もが以前は持っていました。
そのような純粋な者であったのです。

それが、世界の一々に名前を付け、区別し、意味づけをした結果、というより、そのような手法を(世間から)押し付けられ、「あたりまえ」としたから、我々はこの世界以外の真実を忘却してしまいました。

神を悟る事は、人として生まれた事の重大な意義です。
しかし、「神」という「名前」を付けてしまうから、「わたし」と「神」は分離してしまいます。

それには、ほんとうは名前はありません。
ほんとうは、我々は、それでもあるのです。
それしか無いのです。
それだけが在るのです。

その「それ」に気づいていて、しかも、世界にも気づいていて、一切を全的に見る事が
できるでしょうか。

世界にも「それ」を見る事ができるでしょうか。

ここからは、全く言葉が適用できないゾーンです。
感性に委ね、感覚し、「それ」と「世界」の隔たりが無い事に気づけるでしょうか。
この感動、この驚き、この素晴らしさに泣けるでしょうか。

何も目的を持たず、到達しようという思いを捨て、あるがままを享受しようとするなら、何かが起こるでしょう。

実は、分離は分離を超え、一元に帰るために現れます。
苦悩は苦悩を超え、苦悩など無く、ただ在る事に気づくために現れます。

神は概念です。
「わたし」は観念です。

名付ける事で意味づけているだけではないでしょうか。

唯一実体は、「在る」そのそれです。
それを「わかる」事ができるでしょうか。

共に在り、また、それで在る事を、わかる事ができるでしょうか。
この全てを、愛する事ができるでしょうか。

永遠という概念を超え、つまり、初めも終わりも永遠も適用する意味など無いその「在る」で在る事に納得できるでしょうか。

だからと言って、そんな事を考える必要はありません。
ただ、それで在るかどうかです。
それで在るとき、自ずと知る事になります。
人はそれ自身で知るように出来ているのです。