わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ(断片) 花岡修平 「真我が目覚める時」

*この記事は花岡さんの記事の全文ではない。私が自分にとって必要と考えた部分のみを抜粋して保存しておいたからだ。

 

やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ

 

だれが、この世界、宇宙は現実であって、

これ以外の世界はないと捉えるでしょう。

 

マインドの思考はそのように働きます。

 

ほんとうは自我意識に世界が映し出されているだけなのでしょう。

 

自我の中から現れた自分の物語が映し出され、

その主人公に収まっている自分を観ているだけなのでしょう。

 

言葉で思考し、つまり、ありとあらゆるものに

名前を付け、そして定義し、断定します。

 

(省略)

 

さて、それら押し付けられた、刷り込まれた価値観や、欲や、執着、

虚栄を一切放擲し、自己の内側の「ただ在る。」に漂い、くつろぎ、

そこに座を置き、いつもそこに留まるなら、

静寂の彼方から、「わかる力」が活性化されていきます。

 

(省略)

 

出来ないのは、完全に明け渡していないからです。

自我のどこかに、「捨てたくない、それは恐ろしい。」

という部分を隠しているからでしょう。

 

完全に、もうどうなってもいいさ、神にお任せしよう、

神が起こすことを、何から何まで受け入れようって気になれば、

出来ちゃうんです。

 

やんちゃな自我に何が出来ようか?

ハチャメチャな自我に何ができようか?

 

自力という自我のやっきな力任せなやり方で得られるものは真実だろうか?

 

お任せしてみればいいのです。

 

それは責任放棄とは違う。

責任という言葉と定義さえ、あなたに刷り込まれた幻なのですよ。

お任せして、与えられるものを受け入れるだけでいいのです。

 

そうすればわかります。

とてもシンプルです。

 

わたしは自分の一切を神に差し出して、「これ」を授けられた。

所有に依拠しない真実の愛、欲の達成とは違う満ち足りた至福。

許すことによる完全な許し、自分勝手なわがままである自我からの自由、

そして、この胸の「ここ」。

 

そして、さらに、その源泉(神)こそが真我となんら違わないという

真実を理解した。

つまり、それに任せる「他力」は、いわばほんとうの(真我の)

自力を目覚めさせるということ。

 

(省略)

 

自我が自我の欲を満たすためにシャカリキになって、

自我のとらわれになっていいのでしょうか?

 

真我を開発する?

なんという誤認だろう、、、、。

 

真我は開発などできない。

それはすでに存在している。

あなたは「それ」だ。

 

それなのに、どうして開発できましょうか?

願望達成が根本にあるから、そのように迷妄するのでしょう。

 

ベクトルは逆です。

逆に向けば明知が輝いています。

無明を照らす光です。

 

(以下省略)