わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

どん底にこだわらない 花岡修平 「真我が目覚める時」

どん底にこだわらない

 

私の体験を聞いた人は、みなさん、同じようなことを言う。

 

そういう人生のどん底を経験しないと、自我の明け渡しは不可能なのですか?

自分には耐える自信がない。

わたしは、そんな苦しみを味わうことなく悟りたい。

瞑想で悟ると聞きました。どうして出来ないんですか?

 

だからね。

 

どん底を経験することが、悟りの入り口じゃないんだよ。

自我を絶対的に放擲する。これが出来ればいいだけだ。

どん底経験が無くてもいいんだ。

 

だったら、瞑想で徐々にやれるんじゃないですか?

 

瞑想は手放せる自分を形成していくには必要な行だけど、

瞑想をしている自分っていう自我はそこにあるでしょ?

それで得られるのは境地だから、覚めたら元にもどるんだよ。

もちろん、境地を否定しているわけじゃない。

 

要は準備ができたかどうかだけ。

準備ができて、シフトできるかどうかだけ。

瞑想はその準備のための大切な役目をしている。

でも、瞑想をしなくても、準備が出来ていればいいんだよ。

要するに、瞑想が直接の気づきにつながっているわけじゃないってこと。

 

だから、ある禅師は簾を巻き上げている時に、

ある農夫は畑を手入れしている時に、

あるサラリーマンは瞑想経験がなくても、ふっと思考を止めた時、

突然、来ちゃうわけ。

 

でも、自我を捨て去ろうとするそれも、自我がするわけでしょう?

 

そう。だから、自我を完全に消して、無いものにすることは出来ないんだよ。

日常を生きているからにはね。

そういうことで、明け渡すと言ってるんだよ。

 

じゃあ、何に明け渡すかっていうことになるでしょう?

 

自我も何も、ありとあらゆるものを出現させている源泉にね。

お返しするの。

 

もう充分自我を頑張ってみました。けれど、もう、お手上げです。

お返ししますから、あとは好きなように処分してください。

どうなろうと、何も文句言いません。

どうなっても、受け入れます。

絶対的に源泉である「それ」を信頼しきって、お任せします。

この手に負えない自我も、この「わたし」という思いも共に

引き受けてください。

 

で、源泉にそのままシフトするわけ。

 

その時、ああ、もう、自我に責任もたなくていいんだって、解放されるんだよ。

解放された喜びが、胸に証として現れる。

それが、ハートのチャクラが開くって表現している「それ」。

まるで自我という岩戸をアマテラスが開いてくれるように。

開いちゃったらもう、溢れ出る溢れ出る。愛がね。無条件の愛。

 

だけど、源泉にお任せするには、源泉というものが在るんだって、

気づかないといけないわけでしょう?

そのために役立っていたのが瞑想だと思うわけ。

 

自我を開け渡し切って、「そこ」に入ると、

それはすでに「境地」とは違うことに気づく。

なぜって、自我はすでに明け渡してあるから、

それはもう、本来、自分が在るべき「座」なんだよね。

そこに留まることができるんだよ。

 

それでも、日常は普通に生きられる。

観察する者は、「そこ」に留まりながら、自我を観察しながら、日常を生きられる。

つまり、観察する者が、源泉の側にあるか、自我の側にあるか、わかっていられる。

生きられても、生きられなくても、どうでもよくなってるから恐怖もない。

 

それよりも何よりも、溢れる愛の故の至福に、

この条件のない愛、駆け引きもなく、見返りも求めない愛の故に、

大いなる幸福に満たされる。

その至福の故に、相手を許せるし、あらゆる命を慈しむ。

 

また、愛に対して、感謝という愛で返せる。

この味わい、このすばらしさ。

 

わたしが言いたいのは、ただ、「これ」のことだ。

 

そうすると、悟りだろうが、もうどうでもよくなる。

だから、わたしは悟ったなどと一言も言ってないし、

結局、悟りって何?わかりません、、、、ってしか言えない。

 

でも、片手を神に触れながら、片手で日常を生きられる。

 

もう、何もいらない。

 

今生では、そうはならない人でも、いつかは、そうなってしまうんだよ。

結局、誰でも。

 

過程は、みんな一様ではないけれど、っていうより、起こることは、

誰の起こることでも、すでに決まっている。

結局、意識は、「そこ」に向かって昇華する。

みじめな運命など、無い。無いんだよ。

 

そうなれば、今生が最終の章だ。

 

2012-03-09