わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

わたしは在る!:質問と答え

◎前記事「わたしは在る!」には、コメント欄が付属しており、その中で非常に興味深い読者の質問と、それに対する花岡さんの答えがいくつも展開されていました。その中から、4つをピックアップし、整理してみました。花岡さんには、今までの記事で話していないことが、どうやらたくさんあるようです。ある読者の神秘的とも言える体験も興味深いものがあります。多くの人々が(話していないだけで)、実は様々な体験をしているのですね。ハートが開くとき、あるいは、「それ」を体験するときの仕方も人さまざまであることがわかります。青字は質問者の発言です。ハンドルネームは、いつものようにイニシャルにしてあります。

 

(1)

【質問者K】

That ・・・「真我(別の私)」というモノがあるという誤解。 
I am That・・・そこから、「自分(個別化した私)」は「真我(別の私)」であるという誤解釈に至る。 
「私は、元々真我という状態である」も同じ。 
じゃ真我やその状態はどこ?と探すことになる。 

「在る」=わたし=真我(一者) 

私はラマナさんの時も、 
ダグラスさんの時も、 
分離を強化していただけなのですね。 

では、 
「わたしを探すのではなく、「在る」を知るために深く深く入り込む事でしょう。」 
とは、何かすることでしょうか? 
それとも、「在るが私(あなた)である」と知識として知り、 
その気づきに至るまで静かに待つことでしょうか? 

森田療法では「ちり紙一枚折っても全治!」と言います。 
エゴの想いを離れ、外の一つことに打ち込む事は、自覚なくとも「在る」ことなのでしょうか?



 

 

 

【花岡】Kさん、こんにちは。 


>では、 
「わたしを探すのではなく、「在る」を知るために深く深く入り込む事でしょう。」 
とは、何かすることでしょうか? 


わたしは「在る」、この意味を受け取れるなら、なにもしなくてもいいでしょう。 
それは、「在る」に意識を馳せる事ができたから受け取れたのです。 
受け取れたなら、更に更に入って行けるでしょう。 


>それとも、「在るが私(あなた)である」と知識として知り、 
その気づきに至るまで静かに待つことでしょうか? 


知識として知っても、気づきには至る事はないでしょう。 
知識は思考によって価値観を与えられ思考によって大事にされているのでしょう。 
思考ではなく、ハートが反応しない事には気づきはありません。 
気づきは、ハートが「在る」と呼応するかどうかなのです。 
ダグラスの実験は、ハートを探るためにやっていたのではないのですか? 
それは、いいことだと思いますよ。 

森田療法では「ちり紙一枚折っても全治!」と言います。 
エゴの想いを離れ、外の一つことに打ち込む事は、自覚なくとも「在る」ことなのでしょうか? 


ひとつの事に打ち込む事で思考がなだめられるなら、無意味とは言いません。 
しかし、永続せず、また陥るでしょう。 
そうであれば全治とは言い難いでしょう。 
「在る」は、何かに打ち込めば「在る」のではなく、「在る」は条件なしに「在る」のです。 
ただ、気づかないだけです。 

気づかないのは、思考によって思考が縛られてるからです。 
このマジックから覚めなければいけません。 
思考があろうが、取り沙汰せず、ハートの通路により「在る」と導通しなければいけません。 

思考に牛耳られているうちは、ちり紙を何枚折ろうが、全治する事はありません。 
全治は、思考を取り沙汰せず、思考の判断に翻弄される事無く、ハートの判断に委ねる事によって為されるというのが、わたしの立場です。 
それが疾病つまり、思考の操り人形から脱出する近道だと思うのです。 

ハートは「これ」であり、「これ」は「在る」に結合しています。 
(この部分を思考してはいけません。感覚してみてください。意識をそれに馳せてみてください。) 

意識をそれに馳せる・・・というその初動も思考ではないか?というなら、そのとおりです。 
しかし、井戸の中の水をポンプで汲み上げるためには、外にある水を充填しなければ汲み上げられないのです。

 

 

 

【質問者K】

どうもありがとうございました。 

以前「ピュリテイをほほえむ」という、 
過去の記憶(思考)を手放し、 
人や自分の内側を、ただ赤子を見るように微笑むという瞑想(?)をしていました。 
ハートが大きく柔らかく開き、輝いているようでした。 
あたたかいものがこみ上げ、 
何もないのに涙が出て、ありがたい、ありがたいという想いがあふれ出てきました。 
肉体の皮膚までふんわり柔らかく白くなり驚きました。 

ダグラスさんの実験の時は、 
私は見ることに夢中になり、 
単眼の巨大な目で、 
こちら側の、とらえられない圧倒的なスペースと、 
鮮明に見える人や物、動く外の世界をただただ興味津々で見つめていました。 
それだけでした。 


ハートは「これ」であり、「これ」は「在る」に結合しています。 
(この部分を思考してはいけません。感覚してみてください。意識をそれに馳せてみてください。) 

はい。 
思考を手放して、意識をそれに馳せてみます。 

どうもありがとうございました!

 

 

 

(2)

【質問者A】

はじめまして。覚醒を目指す者です(*^-^*)   
少し前にこちらを知り、読ませて頂いています。 

おっしゃっていること、知識としてはわかります。 
しかし、 

>知識として知っても、気づきには至る事はないでしょう。 

そうなんです。 

今そこで長いこと立ち往生しています。 
あとはとにかく内に向かうしかないのだろうなとずっと思ってはいますが、 
何らかの体験がほしいと日々思っています。

 

 

【花岡】

Aさん、はじめまして。 

Aさんは、覚醒を目指しているのですか。 

わたしは目指した事はありませんでした。 
まったくそのようなものは欲しいなどと思っていませんでした。 
そして今も、それは変わっておりません。 

目指せば手に入れられるでしょうか? 
誰が、いや、何がそれを目指しているでしょうか? 

覚醒は到達するものでも、取に行くものでもないと思います。 
それは与えられるものだと思います。 
そして既に与えられているにも関わらず、何かがそれを気づかせないように頑張っているのです。 

 

 

【質問者A

ご丁寧なお返事をありがとうございます。 

>既に与えられているにも関わらず、何かがそれを気づかせないように頑張っているのです。 

初めから神と分離したことはないのに、自我と言うか執着心なのでしょうと思います。 

花岡さんがハートと言われる時、それはどういうものでしょうか。 

度々すみませんが、よろしくお願い致します。 

 

 

 

【花岡】

ハートについての質問に一度はお答えしましたが、詳細に答えれば答えるほど知識にしかなっていかないような気がして、削除致しました。 

言葉にすれば思考が介在し、試行によって理解しようとします。 
そうであれば、体験が置き去りにされて思考が何かしらの「あなたなり」の答えを作り上げてしまうかも知れません。 

実際、これはとても単純な事です。 
あなたは「真実の愛」を、思考で理解するでしょうか? 
思考が介在しない「ハート」で理解するでしょうか? 

「真実の愛」と「ハート」は切り離せないものです。 
それは、太陽と太陽の光の関係のようなものです。 

感覚できるかどうか。 
それだけにしか、それをわかるための手段はありません。 

そしてまた、その手段もとてもシンプルな事です。 
「汚れ」を掃除するだけです。 
想念、思考によってこびりついた判断基準を見直すという作業の事です。 

あなたを苦しめてきた、当たり前を見つけて、洗い流すだけです。 
涙が洗い流してくれるまで、それをするのです。 

太陽を覆っている雲が晴れるなら、明るい陽射しに満たされるでしょう。 


 

(3)

【質問者T】

私の状況

はじめまして 花岡さん 
Tと申します。 

人生を見直したところ、死ぬまでには、自然と調和した生活をしたいと考え、その心準備として、2ヶ月ほど前から瞑想で心を静めることを始めました。 
瞑想を本格的に始めたのは生まれてはじめてでしたので、 
そこで起こることが何を示すのか理解できないでおります。 

今の状況は、ある日を境に、一日中の80%ぐらいを静寂が私を包み、まるでマインドがない状態で、遠くからみている別の私がいて、目を閉じればそこに無のスペースが限りなく広がっているように感じるですが、(言い方悪いと離人症?)これはどういった状況かお分かりになりますでしょうか? 

お忙しいところ、すいません。 
ご都合のよい時間にお答えいただければ幸いです。 
 
 
連続投稿すいません。
 過去記事を拝見させていただいて、 
一日、静寂の中のハートという部分を探してみました。 
すると、何で今まで気づいていなかったんだろうと不思議に思いますが、胸の辺りからほんわか空間に拡散していて、そこにいると、妙に嬉しくなってにやけてきてしまい、落ち着いてずっといたくなるようなもの(静寂は純粋で無色透明な感じがするのですが、ハートはもっと甘美で女性的?)なのですが、それが花岡さんの言うところのハートという事であってますでしょうか? 

静寂にいる時の方が、ハートにいる時よりもノーマインドな感じ(両方とも何も思考はしていないけれど、ハートの方は、うれしくなる感覚が出てくるという意味で)がするのですが、それでもハートに入っていく方がよいものなのでしょうか? 
 
 
【花岡】
Tさん、はじめまして。 

このところ何かと忙しく、お答えするにも記事を更新するにも遅れがちになってしまっています。 
申し訳けなく思います。 

人生を見直す、という作業を、あなたはしようとされていて、 
そしてそれは、内側からの・・・言ったら催促なのかも知れないですよね。 

あなたがあなたの勝手で何かしようとしていても、ほんとうは仕組まれているのかも知れません。 

あなたの実在は、時期を見計らってそのような運び方をしているのでしょう。 

さて、静寂に我を置き、我そのものを静寂とした時、自我の「わたし」は静まります。 
それは、「わたし」という小さなパッケージから解き放たれ、無辺の深層に漂い寛ぐ境地です。 
どこまでも狡猾なエゴから自由になれる、穏やかな境地です。 

しかし、境地に過ぎないのです。 
再び、「わたし」という主人にこき使われる日常に戻ってきます。 

静寂を悟り、空を悟ったにしても、それは実在である「在る」(便宜上、神と言い直します)を悟った事にはなりません。 

我々は神に通じて、自己そのものが神であることを悟らなければ完全な安心は得られないのです。 
つまり、エゴを持ちながらもエゴにこき使われる日を卒業できないという事です。 

神を悟るためには、静寂を悟る事も必要であり、この「これ」つまり「ハート」に気づき、それが何であるかを知らなければならないと思うのです。 

それは言葉で説明はできませんが、体験は出来るのです。 
しかも、一度体験するなら、たとえ感覚を忘れてしまっても必要なら呼び起こせますし、むしろ頻繁に呼び起こされます。 

Tさんが言うように、それは喜びを伴っています。 
また、驚いた事にこうも言われました。 

> ハートはもっと甘美で女性的? 

そこは、神に通じる前に、その属性(母)に触れるのです。 
マーハー・マーヤはその力です。 
ですから、そこに触れた多くの聖者は、涙を流し呼ぶのです。 

母よ! マーよ! マーマ! 

わたしの事を話しましょう。 
ハートが開く前に、(内緒にしてまたが)強烈な母性が現れたのです。 
この胸の中央に。 
男性でありながら、母性を理解したのです。 

それはマーから与えられた「真実の愛」でした。 
今でもそれを思い出す時、涙が溢れて来てどうにもなりません。 

わたしが度々言うところの「至福」は、それの事なのです。 
それを浴びていると、もう、満たされた喜びでいっぱいになるのです。 

人にとっての救いは、そこにあるのです。 

罪人が罪を犯すのは、それを知るための導きだとわかりました。 
善人が罪人のために苦しみを味わうのは、それを知るための導きだとわかりました。 
どちらにも、結局最後には、この素晴らしい救いがあるのです。 

ほんとうはこのような事を言ってはいけないのかも知れません。 
なぜなら、それを理解できるだけの準備の整わない人々は思い違いをするからです。 
最後には救われるなら、今は何をやってもいいではないか? 
やりたい放題やっても、いいではないか? 

しかも、そのような思い違いをする事さえ、神は 
なんと 許してくださっている。 

我々は立ち帰るべきだと知らなければいけません。 
自分の実在である神に。 

ハートを見つける事は、そのために大切な事なのです。 
静寂に入り、静寂を楽しみ、日常に戻るのも無意味ではありません。 
しかし、それは単に、準備のためにする事です。 

この事を、我々は悟らなければいけません。 

「わたしが為す」ではなく、「みこころ」を信頼し、愛し、受け入れる。 
それは神を、つまり自己の実在を受け入れる事です。 
ハートによってそれは、促されます。 
そこから湧き出す、溢れるほどの愛によってのみ、悟る事ができるのです。 

そうすれば、「わたし」がなぜ在るのか、世界がなぜ「在る」のか、誰にも訊ねる事無く、瞬間に理解するでしょう。 
 
◎赤字の部分は、私がマークしたもの。これは、今まで花岡さんが公開で言わなかったことだ。なぜなのか?これを知っていれば、花岡さんの「神は愛である。」という言葉をもっと奥行きを持って理解することができたのに。花岡さんは、だれにも言わない秘密をたくさんもっているようだ。
 
彼の記事をたくさん読んで感じることのひとつは、記事と記事の間にしばしば矛盾が見られるということ。その原因は、この「秘密」にあるのかもしれない。(ブログ管理人より)
 
 
 
 
【質問者T】
 
花岡さん 

こんにちは Tです。 
今日はとても暑いですね。 

ご丁寧なご意見ありがとうございます。 

> 人生を見直す、という作業を、あなたはしようとされていて、 
> そしてそれは、内側からの・・・言ったら催促なのかも知れないですよね。 
> あなたがあなたの勝手で何かしようとしていても、ほんとうは仕組まれているのかも知れません。 

おっしゃる通り、導かれるような気がしております。 
いつから導かれているのか分からないのですが、 
一番はっきりした事実と言えば、 
導かれるように18歳のとき、初めての海外一人旅でインドに行って、 
ダラムシャラー、バラナシ、ブッダガヤ、ルンビニー等を回っているうちに、 
出会う事実、感覚が自分の理解を超えるカオスの中で、 
自分を見つめる事の必要性を感じました。人生観のシフト(物欲主義の放棄)が起こりました。 
そこから何もない空白の期間があり、2ヶ月前に何気なく人生計画をたてる中で、 
瞑想をする必要性を感じて今に至っております。 
(空白の期間も瞑想願望は特にありませんでしたが、自然の中で生活したいという願望はありました。)

ただ導かれている気がするだけで、 
事実だけが起こっていて、どうしてそれが起こるのかは分かりません。笑 

> しかし、境地に過ぎないのです。 
> 再び、「わたし」という主人にこき使われる日常に戻ってきます。 
> 神を悟るためには、静寂を悟る事も必要であり、この「これ」つまり「ハート」に気づき、それが何であるかを知> らなければならないと思うのです。 
> それは言葉で説明はできませんが、体験は出来るのです。 
> しかも、一度体験するなら、たとえ感覚を忘れてしまっても必要なら呼び起こせますし、むしろ頻繁に呼び起こされます。 

現在、日常生活の20%ぐらいは「わたし」になっているように思います。 
仕事をしている身なのですが、 
何かの業務ののめり込んだ時というのは静寂の上に業務がある訳でなく、 
業務そのものになっている自分がいて、それに気づいた瞬間に静寂に戻るという事があります。 
また、今日もハート(まだまだ小さい?笑)とともにいたのですが、1歳の子供の育児をしていると、 いつのまにか相手の状況に同化している自分に気づき、その瞬間にハートに戻るという感じでした。 
1ヶ月前に比べると、飛躍的に静寂といる時間は長くなっているのですが、ハートと共にありつつ日常生活を過ごしていくコツなどありましたら教えていただけると助かります。 

> わたしの事を話しましょう。 
> ハートが開く前に、(内緒にしてまたが)強烈な母性が現れたのです。 
> この胸の中央に。 
> 男性でありながら、母性を理解したのです。 

> それはマーから与えられた「真実の愛」でした。 
> 今でもそれを思い出す時、涙が溢れて来てどうにもなりません。 

> わたしが度々言うところの「至福」は、それの事なのです。 
> それを浴びていると、もう、満たされた喜びでいっぱいになるのです。 

ハート?を感じた詳細な経緯を書きます。 
昨日から花岡さんのブログを見つけまして、記事を読んだ影響からか 
今日の朝瞑想をしていると、胸のあたりに安心できる場所がある事に気づきました。 
明け渡しの記事があったので、それとともにいて、死んでもいいや無くなってみようと身を任せると、 そこから光の大爆発が起こった後に魂(エネルギーかも)が見えて、1瞬スーッっと現れて消えていきました。 
色々エネルギーの上昇などはこの2ヶ月で経験していたのですが、信じられないぐらいの光のビックバンでした。 
これはクンダリーニなのでしょうか?一瞬起きて過ぎ去っていったので悟ったわけではないのかなと感じました。 
それでその後、死骸のように放心状態になっていると、残ったのは甘美なハートだったのです。 
それでこれがハートかなと思った次第です。 

> そうすれば、「わたし」がなぜ在るのか、世界がなぜ「在る」のか、誰にも訊ねる事無く、瞬間に理解するでしょう。 

花岡さんのおっしゃるように、なぜ「在る」かは、まだ理解できません。 
正直なところ、自分に起こっている事に追いついていない状態です。。。 

これからも貴重な記事、楽しみにしています。 
 
 
 
 
【質問者T】
 
花岡さん 

おはようございます。 
Tです。 

7/6に光の爆発を体験以降、 
在ると共にいると、サハスラーラが開いたようで、光のシャワーを浴びるようになりました。 

体がとろけて、ヘロヘロ状態になるので、最初は戸惑いましたが、 
徐々に魂の存在を理解するゆとりが出てきました。 

自分の中で、これは進むべき道だと確信していますが、 
周りにこういった話を理解する知り合いがおらず、一人で抱え込むと自分が冷静でない可能性もあるかと思い、コメントさせていただきました。 

失礼します。 
 
 
 
(4)
【質問者K
一昨日、頭の中で人を批判していました。 
すると突然「一番ダメで情けないのは私だ!」という強烈な想いが噴き出してきて、 
いろんなエピソードがそれに続きました。 
それはリアルで、認めざるを得ませんでした。 
私は間違いなく、自分を一番ダメで情けないと感じている! 
泣きながら認めると、そこにはやさしさ、純粋さ(?)のようなものが拡がって居ました。 
自己批判はそのままなのに、 
それにまつわる感情が抜け落ちて、 
私は安らいでいました。 
私は大丈夫だと感じました。 

あの、言葉にできない何かを思い出そう、はっきりさせて役立てようと思ったのですが、 無理でした。 

でも、私の内側には、変わらず去らない、思いやりに満ちた何かがある、 
外に探さなくても大丈夫という想いだけは残りました。 

私は自分を、「一番ダメで情けない人間だ!」と感じていても、大丈夫なようです。 
フシギです。
 
 

【花岡】

Kさん。

それは 自分を認めて、認めたうえで許す事ができたという事ではないですか? 

自分を許し、そういう自分を愛する事ができはじめたという事ではないですか? 

それは身勝手な事ではありません。 
拘りの解放です。 


> でも、私の内側には、変わらず去らない、思いやりに満ちた何かがある、 
外に探さなくても大丈夫という想いだけは残りました。 

とても喜ばしい理解です。 

自分を一番ダメで情けない人間だ、と感じているとおっしゃいますが、 
普通、そういう人はとても落ち込むものです。 

風さんは、認めたうえで許し、解放したのです。 
つまり、そのような自分の行為、そのような自分を甘やかし許したのではなく、 
そういう素因を持っている事実を許す事ができたのです。 

人は誰だって弱く孤独です。 
恨んだり憎んだりしてしまいます。 
嘘を言い騙したりもするでしょう。 

そういう要素を持っている自分も、自分の傷も、認める事で許してあげる事ができたのです。 
こうではいけないという拘りを、自ら解放してあげたのです。 

あなたの内側は、きちんと仕事をしています。 
まちがいなく、あなたと一緒にいます。 

これからは、おなじように周囲の人々、関わる人々を優しい思い遣りで許してあげてください。 
あなたの内側は、そのように導きたいのだろうと思います。 


> 私は自分を、「一番ダメで情けない人間だ!」と感じていても、大丈夫なようです。 

私は自分を、「一番ダメで情けない人間でもいい!」と、言いたいのではないですか? 

       
【質問者K】
私は「一番ダメで情けない人間でもいい!」。 
そうです。その方が今の想いにぴったりです。 
今までの「そんな自分じゃダメだろう!」という叱責の声の代わりに、それと正反対の何かが私の内側に感じられるからです。 

自分がこれでいいと思えたら、批判していた人の、私より優れている点を認められました。 
おかしいと思う点と優れていると思う点、 
どちらも持てるようになりました。 
あれだけ抑えても抑えてもあふれてくる否定してやりたい気持ちが消えました。 
とても楽になりました。 

何が起こったのか、教えていただいてよくわかりました。 
どうもありがとうございました。 

自分を許し愛すること、大切ですね。 
私の内側はちゃんとしてて安心ですね。 
うれしいです。 
ずっと苦しかったので、とてもうれしいです。 

本当にどうもありがとうございました。