わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

死を選んだのは誰なのか?:質問と答え 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎これは、前記事「自殺も決まっている事か?・・・とんでもありません!!」のコメント欄にあったものです。とても本質を突いた質問だと思ったので、ピックアップしてみました。短いものですが、難解です。私自身、いくつも疑問が浮かびました。

 

質問者M】

「わたしはいない 。」
ならば、死を「選んだ」のは誰なのですか? 
この問いは誰が発しているのか。 
幻と幻がやり取りをしているのですか。

 

【花岡】

誰も選んでいません。 
そのような「思考」があるだけです。 

では誰が思考しているか? 
という「思考」が次に現れるでしょう。 

誰も思考していません。 
そのような「思考」があるだけです。 

そうやって、「誰だ?」「誰だ?」の問いは、終わる事がありません。 
そのようなループに陥るのです。 

エゴはそのようにして気づく力を遮っています。 

では誰が・・・気づくのか? 

誰と特定される何ものもいないのに、誰だ?と問うその、エゴそのものが気づくのです。 

気づかせる「何か」が働いているのです。 
それはいつも働いてながら、エゴは遮閉しているのです。 

「わたし」は「わたし」だと言い張る事で、気づかずにいられるのです。 
そうしていないと、「わたし」は「いない」からです。 

「わたし」にとって「わたし」がいないというのは恐怖です。 

だから気づこうとも思わないし、気づくことなど必要ないし、エゴの縛りで「わたし」の世界にいるのです。 
思考を利用して作られた世界です。 

希に、気づかせる「何か」を受け入れる人がいます。 
そうしたくなる瞬間が訪れるのです。 

そういう人のエゴに真実が目覚めるのです。 
「わたし」は「真実のわたし」ではなかった事を悟ります。 

「わたし」は、「真実のわたし」に解き放されます。 

そのような人でも、わずかばかりの「わたし」は残されます。 

「真実のわたし」の働きで、「わたし」を完全に解脱させるまで。 
これを、ある人は悟後の修行などと言いました。 

そのわずかばかりの「わたし」の世界は、幸せで満たされて、自由で、宇宙全てを抱きしめたくなる程喜びに満ちています。 

でも、そのような事が知られなくても、いいのです。 
今、ある人がそうなのであれば、それは仕方のない事であって、それでいい事であって、気づけるときは気づけるでしょうから。 

そうであるから、気づいた人が特別だと言う事でもなく、優れていると言う事でもなく、なんの差もありません。 

だから、自然現象だと言っているのです。