即身成仏 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんから頂いた記事です。コメント欄でのある読者との問答を最後につけ加えておいた。
即身成仏
仏という言葉があって、それは何か?という解釈に、人は実に様々な意味づけをしています。
国々の単位でも、個人の単位でも、大きく、また微妙に異なっています。
異なっているというのは、どれも正しいとは言い難いと言う事です。
また、正しいと断定できないのであれば、正しいそれが不明なわけで、誤っていると断定する根拠も見いだせないわけです。
ただ、手応えで判ったと判るしかありません。
仏(ぶつ=ブッ=buddha)とは、人としての在り様と言いますか、状態として本質、あるいは本性に同化した、またはそれになった者を言う訳です。
それ、というのは、全くの真実、如実の事です。
思う事、思考、身体的受容による現象の知覚という事ではなく、全くの根本の事です。
それに溶け込む・・・というより、元々そうである事をわかってしまった状態です。
如実に溶け込むというより、如実に取り込まれ、元々取り込まれていて、自己がそれである、その状態の人です。
それに気づかないでいる人に言うには、如実から現れているのだと言うしかなく、そうであるから如来と言うしかないわけです。
とても意味不明な説明で判りにくいかも知れません。
説明しようが無いのです。
この説明しようの無い事を判れと言っても無理かも知れません。
明確に判った人でさえ、明確に答えを言い切れるわけでもないのです。
本来このような事は、哲学でもなければ、宗教でもありません。
でも、やっぱり説明されても判らないものは判らない。
結局、とりあえず信じてみるしかなくなります。
信じてしまうから、宗教になってしまいます。
根拠を見出せないまま、信じてしまうから、そこから前に進めなくなります。
それが宗教の厄介なところです。
仏と言えば、死んだ人の事を指すと信じてしまっています。
人の死が成仏ではありません。
成仏と人の死は、何の関係もありません。
宗教を信じるから、そのような誤解を解く事がなく、その機会にも巡りあいません。
それを説明するのは、本来その事を完璧に判っていて誤解なく説明できるお坊さんの役目です。
大僧正、大阿闍梨ともなれば、当然つまびらかに説明できるわけです。
(きっとそうに違いありません・・・と自信を持って言ってみたいです)
さて、何が仏を理解しなければいけないのでしょう。
マインドの「わたし」が理解しなければいけません。
「わたし」が苦悩して、それを引きずっているのです。
「わたし」がその如来の如に気づかないで、何が気づけるというのでしょう。
「わたし」以外は、すでに如であるのです。
如であるものが、ことさら如を自覚する意味がありません。
如の中の小さな「わたし」だけが判っていないのです。
「わたし」を持っている状態で、「わたし」が事の初めから如であった事に気づかなければなりません。
そうであるなら、「わたし」を離れた人の死にあっては、「わたし」がそれを理解するチャンスは失われます。
「わたし」を持っている状態、すなわち人が「生きている」と思っている状態でそれに気づかないと、「わたし」を失ってからでは気づけないのです。
それだから、再び母体に宿ってやり直さなければいけなくなります。
生きているうちに如に気づく以外、無いのです。
即身成仏です。
この生身の身体を持っている時でないと、そのチャンスはありません。
成仏とは、この今、それに成ることです。
「今」しかないのです。
自身と、そして見える世界が変容していきます。
魂がどこか未知の世界に飛んでいくのでもなければ、御使いが現れて天の世界に連れて行かれるのでもありません。
捉われの根、断定の根、執着の根、様々な縛り付ける根がホロホロと落ちていき、見える世界が明らかになって行く。
断定の世界、思い込みの世界、執着の世界がフェーズアウトして行きます。
真実の有り様にフェーズインして行きます。
自身が如であり、みんなが如であり、全てが如である事が実感できます。
みんなが、全てが如来である事に驚嘆します。
事の初めからみんな在った。
事の終わりなど無かった。
誰も生まれず、誰も死なない。
恐れなど、持ちようが無いのです。
全て、完璧な、在るであり、現れです。
如実なる、ちから、働きが、来ているだけです。
みんなが、最初から如来だったのです。
不思議です。
それがわかる事も、それが判らないでいる事も。
そして、この解放感も。
誰もがこの解放感に浸れればいいのに。
浸れるのに・・・
浸れるんだよ・・・
手放すだけだ。
ありのままを受け入れるだけだ。
与えられるまま受け取るだけだ。
手放せば受け取れる。
手放して、あがきをやめて、落ち着いて、身をまかせてみなさい。
溺れるほど水位は深くない。
せいぜい膝ほどの深さだ。
呼吸もできる。
大丈夫なんだよ。
あがくから溺れる。
ビニールのプールで(自我の中で)溺れていてどうします。
さっさとそこから出て、如実なる自己に寛いでください。
恐れる事は何も無い。
もう何でも楽しめる。
リーラ(遊戯)を楽しめる。
マーヤ(幻想)を楽しめる。
苦悩さえ、楽しめるのです。
2012-06-08
[読者MI]
花岡さんに質問なんですが・・
先日、義母が亡くなりました。
目の前の義母の亡き骸を見ていてふっと思ったんです。
私のハートは「ここ」にあるのは理解しています。
それじゃあ 目の前の亡き骸となった義母のハートはどこにあるのだろう?って
義母はハートに気づかずに逝ってしまったし・・って
[花岡]
質問にお答えします。
義母さまのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
さて、人の死は、単に身体の変容に過ぎません。
だれも亡くなってはおりません。
義母さまが創り出していた世界が、変容して移行しただけです。
いきなり移行したのではなく、フェーズアウト、つまり徐々に現実が薄らいで、徐々に変容の世界を創りだすに至るのです。
それは、危篤状態に入った時から進行していきます。
そのようにして、身体という現実の苦しみから離れていくのです。
たしかにハートに気づいてはいなかったのでしょうが、気づかないのは無い事ではありません。
我々はそれが有るのに気づいていないのです。
気づかないだけで、それはだれにでもあって、気づくか気づかないかだけなんです。
さて、ハートはそれ自体存在の実体ではなく、存在の実体につながる通路とお考えください。
それは例えば、潜水服に空気を送り込むエアーホースのようなものです。
船上からエアーホースを通して、空気を送りこむ事で、潜水作業を長時間続けられる、命綱です。
潜水者が船に帰ればホースを外します。
ハートは実体と繋がるエアーホースです。
源泉の愛がそこから送られて来るのです。
それに気づかないから、空気(愛)が足りなくて、現実であえぐのです。
そして、義母さまは、自らの世界を変容されましたが、それがそのまま実体に帰ったわけではありません。
覚醒なくして帰るわけにはいかないのです。
そういうわけで、ハートであるエアーホースは今だ義母さまの内にあると思われます。
それを、そのまま次の物語に引き継ぐのです。
それは、とこか遠くに行ったのではなく、どこにも行きません。
ほんとうは何処というものは無いのです。
ここしかないのです。
ここというのは、神(源泉)の中です。
生前も今もここに在って、創り出す世界を別の次元に置いているだけです。
ハートをはずすのは、つまりハートも含めて実体に帰還するのは、悟った物語の最終章のみです。
しかし帰還できないからどうだって事でもないのです。
どちらにしても、愛による変容が進行しているだけです。
そうであるなら、断言できます。
この後の、どれかの物語で、それは成されるのです。
判らない部分は、再度質問してくださいね。
[読者MI]
ありがとうございます。
これは 肉体が滅びてしまった後の魂の内にあるということでしょうか?
全て在るものがあり、在るものしか無いという前提でお答えします。
すべてほんとうは「ひとつ」の中に内包されています。
その個性の部分が真我から変容して自我を現すのですが、その間に個我があります。
どこの部分がどうだとか言うのは、重要ではありません。
個性を持ったまま次の物語を待つ準備段階にあって、つながるハートはそこでまだ持っているという事です。
納得のいかない部分は、更に質問してください。
難しいです。
ハートをはずすのは、つまりハートも含めて実体に帰還するのは、悟った物語の最終章のみです。
生前も今もここに在って←の部分ですが
私(自我)の知識で理解しようとするので 理解できないのかもしれませんね。
>
> 私(自我)の知識で理解しようとするので 理解できないのかもしれませんね。
そのとおりです。
そして、亡くなられた人のハートがどこにあるかは、特に重要ではありません。
ここに在るも、まだわからなくてもいいのです。
あとで、自分からわかっていきます。
宇宙のあれこれも重要ではありません。
ほんの僅かな事が重要です。
マインド(思考と思考の働き)を、離れた位置から観る事。
その離れた位置に気づく事。
頭で考えるのではなく、胸でわかる事が重要です。
まず、そこからです。