作用反作用と次元と 花岡修平「真我が目覚める時」
◎Hさんから頂いた記事です。
作用反作用と次元と
ほんとうは、唯一つがあるだけで、つまり、1があるだけで、
それが身体という窓を境にして、+1と-1という「合わせ鏡の世界」を見ています。
作用反作用の法則と言います。
合わせ鏡で反射されたエネルギーが像を結んで、どこにもぶっ飛んでいかない宇宙が展開されます。
現象世界の成り立ちは、二元。
もしも片方だけで逆がなかったら、星々は激突して砕け散り、なんとも収拾のつかないカオスとなります。
遠心力と向心力があるから、丸い惑星、うずに巻く銀河が現れます。
合わせ鏡の反射が結んだ像が、宇宙です。物質です。世界です。空間です。ゼロ・X・Y・Z・Tの座標です。
五次元世界と言われます。点から時間までの次元です。
六つ目の次元に超えていく事が、唯ひとつの、つまり全体に至る手段です。
そのためには、五つの次元に縛られない事が必要です。
五つの次元から自由になる事です。
+1-1=0 です。
分離した+1と-1が交差する場所、そこには何も無い、空、があるでしょう。
物質的に何もないという事です。
基点のゼロです。
空にくつろぐなら、サーマディを感覚するかも知れません。
何もないゼロ意識でしょう。
ですが、そこが洞察の最終ではありません。
ほんとうは1があるだけで、点というゼロも、線も、面も、立体も、時間も、現象世界にしか適用されない、
自我意識に現れた二元世界です。
魔術師が見せる魔法です。
イリュージョンです。
そうであるなら、宇宙意識も、自我意識の中の幻にすぎません。
それだから、ゼロも、線も、面も、立体も、時間も、幻です。
そうであるなら、無も、空も、サーマディも、そうなのでしょう。
それだから外の世界に尋ねるのではなく、内なる真我に問えと言うのです。
内なる超感覚でわかるという事です。
真我の世界にあるのは、無ではなく、有であって在るです。
それは「在る」です。
確実に「在る」です。
ヤハウェとは神の名前ではなく、「在る」という意味です。
「在る」という全体の、全ての、唯ひとつの、「在る」に、
全ての真我は収まりきっています。
1が、+1と-1に分離します。
そのように陽子と電子に分離されます。
真我が体験したい物語を、合わせ鏡で結んで行きます。
真我は身体という窓を通して、それを楽しみます。
リーラと言われます。
真我が「仮の我である自我」をつくり、体験させて共に楽しみ、学び、成長します。
この世界は二元・・・合わせ鏡に映るシンメトリー。
幻と言えど、なんと美しくて尊い世界なのでしょう。
そうして、人は、自我の世界で偏ります。
幸せだけを追い求めます。
楽だけを追い求めます。
気分の良くなることだけを受け取りたがります。
善だと決めつけます。
悪だと決めつけます。
それだから他者を責めます。
それだから恨み、憎みます。
それだから執着し、それを愛だと誤解している事にさえ気づきません。
それだから我ままで勝手な振る舞いをし、それを自由だと誤解していることにさえ気づきません。
それだから欲を満たす事、それを幸せだと誤解していることにさえ気づきません。
二元の一方だけに偏るからです。
それだから、尊い人、仏陀は言い続けたのです。
中道にありなさい。
それが根本にある八つの正しい道を修しなさい。
それでカタルシス、自己の浄化は行われます。
いやいややるのであれば、しなくてもいいのです。
逆に、二つの極を極める、つまり、ものすごい悪人になって、そこから善を悟り、
あるいはその逆によって、中道という統合を知る人もいるでしょう。
それは、それぞれの物語によります。
いずれにしても、片方だけなら偏りです。
ほんとうは分離などなくて、ぞれは全体というひとつから現れていると知らされるでしょう。
ワンネスなのだと知らされるでしょう。
あるいは、そんな事考える事がなくても、
物語は運ばれていきます。
結局、どうしたって、それは体験させられます。
それを拒否できないように、
やがて訪れる覚醒も、拒否できないのです。
人は生まれながらにして悟りから逃れられない・・・道元の言葉です。
突然起こります。
準備ができていれば。
悟りに至るメソッドはないのだと、わたしは言いましたが、
あるとするなら、それはひとつだけ、
その真我に、「在る」に、自我の全てを明け渡すだけです。
あるいは、明け渡せるなら準備が出来ているのです。
サーマディを知らなくても、恩寵が降りるでしょう。
それだから、瞑想も修行も努力もなくていいんだよって言うのです。
ただ、純粋な幼子のような強い憧れと、源泉を信頼し切れるなら、明け渡せます。
それは誰をも見捨てません。
置き去りになどしません。
信頼してください。
愛してください。
憧れてください。
2012-04-03
【読者H】
【読者T】なんという…
花岡さん、Hさん、なんて素晴らしいのでしょう。あまりに高尚すぎてついて行くのがやっとです。(いやいや素直にそう思っています)
でも言っている事はよくわかります。
私が見てるのは幻想で、それに気付き、また再構築出来るのも自分なんですね。なんて素敵なんでしょう。
誰の世界ともぶつからずただその人が見ている景色が人の数だけあるって事ですよね。
本当は繋ぎが隠されてるから離れて見えるだけで誰も離れてないんですね。
光りの源とそこから発する光線が私達って事ですね。この源泉は今までも、今も、これからも未来永劫ずっと在るんですね。
外は雨が降ってます。この雨をうっとうしいと見るか、恵の雨と見るか…
雨は変わらず雨のままでただ降ってるだけなのに、人間に嫌われたり、好かれたり、雨乞いされたり…
起こってる現象に簡単に翻弄されるの見てると、中庸で居る事がいかに軽んじられてるかわかりますね。
反省しよっと。
【読者H】
「光りの源とそこから発する光線が私達」
素晴らしいです。
雨雲の上は、いつだって晴れています。
でも、そこは空であって、太陽ではないのですね。
エゴには、レベルという考えが必要なんですね。
感じるだけでいいんですよね。
ハートは、感じるものですから。
それが、唯一の有、一元ですね。