わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】目覚めない理由

あなたが目覚めないのは、夢をみていたいからです。
まだ見ていない夢に、期待しているからです。

現象世界という夢の中に、まだ見ぬ現象を、奇跡を期待しているからです。

現象世界に奇跡を求めても、それは、ただの夢であるという事に気がついていません。
現象世界とは、あなたが、あなたのマインドによって、あなたの自我意識に展開している世界です。
眠りの状態で夢を見ているのと、何ら変わりません。

その中の、どれもこれもに実体はありません。
流転し、移り変わり、昨日こうだと思っていたものが、今日は全く別のものに変容し、明日はまた違う姿に変わります。
世界だろうが、あなたの身体だろうが、刻々と変化しているのです。

多くの人が、これこそ実体だと思う「心」でさえ、次々と湧いては消える感情の波によって天使にもなれば悪魔にもなります。

その事に気づいた人でさえ、「真我」と聞いて、それは有るのだろうと思いながらも、マインドで、思考でそれを探すから、
壁にぶち当たります。
マインドは、思考によって過去の記憶の中から、真我を定義する言葉をあさります。
どうしても、マインドは言葉で定義しないと気が済まないのです。

我々は、家庭環境の中で、あるいは学校教育の過程で、また社会によって、有りもしない常識や、陳腐な当たり前によって、
そのように訓練され、無条件にそのように反応するように洗脳されてきました。

そしてついに、「わたし」の中は、思考のノイズで満ち溢れてしまいました。
「わたし」は常に記憶に存在し、記憶の中の言葉の断片を、映像の断片を、手当たり次第を拾い上げ、
拾い上げたそれに、また心が揺り動かされ、動かされたことによって、関連する記憶をまたさぐります。

思考が思考によって思考するものを定義づけ、新たな疑問という思考をつくり、いつかは断定という思考にたどり着きます。
全く疲れる作業を、瞬時も休む事無く続けているのです。
その無駄に消費されるエネルギーは、計り知れません。

現象世界に奇跡を求めて、それが何になると言うのでしょうか?
それは消え去るのです。
歴史に残る?
歴史とはあなたの記憶です。
瞬間に、もう、無いのです。
観念の彼方に消え去るのです。
それは幻だからです。
実体が無いからです。
言葉で定義され、形あるものと見なすもの、あるいは、形なく現象と見なすそれらは、
記憶に仕舞い込まれてはじめて認識されている、過ぎ去ったものたちです。

終わったものたちを一生懸命かきまわして、なにを見つけようと言うのでしょうか?
「今」は、「過去」から来るのではありません。

記憶に言葉を探すのを、止めてみてはどうでしょうか?

それは、思考を休ませる事につながります。
思考がフルパワーで働いてオーバーフローになり、頭が真っ白けになって思考が停止する事も無いとは言えません。
でも、それ、疲れるでしょう?
エネルギーの完全燃焼でそれをするより、

ただ、記憶に入り込む事を、しないだけでいいのです。

簡単です。

記憶に入りそうになったら、入りそうになった事に気づいていればいいだけです。
気付いたら、入らないで、戻ればいいだけです。

記憶に入らず、言葉を見つけず、映像も見つけないなら、無思考でいる事に気づくでしょう?

無思考でいるなら、今、真に、今に浸っている事に気づくはずです。

その時「わたし」は消えます。
しかし、「わたし」は消えても、「在る」があります。

見えてきましたか?

「在る」が、チラッと見えたでしょう?

いや、気づいたでしょう?

思考しないで、言葉を適用しないで、そのまま浸りきっていてください。

なにか、薄皮の向こうに「在る」を気づくのです。
次元境界の薄皮です。あるいは、自我の靄(もや)のようなものが、サーッと薄らいで引いていく時に垣間見るでしょう。

なにかひとつの事に集中してそれを成そうとしても、それは自我がしている事なので、不確かな結果で終わるかも知れません。

では、上記の方法は、自我がしているのではないのか? と言うのであれば、

もしも、自我がそうするのであれば、もちろん自我がしているのです。
同じように、不確かな、曖昧な、あるような、ないような、で、手応えというものがありません。

そうではなく、

ハートにそれをさせるのです。
マインドではなく、ハートがそれをするのです。
では、ハートはどこに? とか言いたいあなたは、記憶に入ってしまっています。
どうしても思考の呪縛から逃れられないのです。
おなじみの無限ループにはまっています。

記憶に入らなければ、ハートなんかわかります。
記憶に入らない状態で、感覚してみてください。
薄皮の在りどころです。

記憶に言葉を取りに行かなければ、思考が止まった状態なら、わかります。

静寂な安息の中に、ハートと喜びとを、同時に知るでしょう。

なんだ、そんな事だったのか・・・って思うはずです。

ただ、これを言ってしまっていいのかどうか、わかりません。
人には、わかるべき人と、わかってはいけない人がある、という事を知らされました。

それだから準備が整った人にしかわからないようにできているのだそうです。
それを内側から知らされました。

いや、準備が整っている人にとっても、パズルのようなものです。
難しいわけではないのです。
ただ、マーヤのトリックにやられているだけです。
見事なマーヤの、憎たらしいくらい素晴らしい、愛に溢れたトリックです。

2012-05-06

 

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