わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】変容のビフォー・アフター

さて、ビフォー・アフター、その違いについての質問ですが、問われましたので感じているままを申し上げます。

質問はこちらです。

【読者MMM】不躾な質問ですが

花岡さん、いつも記事ありがとうございます。 
不躾な質問になるかとは思いますが、もしよろしければ教えてください。 

覚醒された前と後では、大事な人との距離感はどのように変わったのでしょうか?(もしくは変わらなかったのでしょうか) 
例えば、奥さまやお母様、ご友人との関係に対する花岡さんの気持ちや印象です。 

私は、妻や母、友人など大切な人と思える方々がいます。 
「ワンネス」という意識になれば、誰もが自分とおなじと思えるようになるのであれば、現在大切に思っている人たちが、「one of them」になってしまうのではないかという「恐れ」が、私の中にあります。 
今の私が私でないものに変わるのではないか(大切に思っていることがそうではないと思うようになる)という怖さです。 

実は、先日、花岡さんのブログの「エピソード3」に書かれているクンダリーニ覚醒と似たようなことが起こりました。 
怖くなって、祈りを唱えると、私も胸のあたりまで昇って、その感覚は消えました(みぞおちと胸の熱さは3日ぐらい続きました)が、その怖さは「私が私でなくなるかも」という怖さでした。 

覚醒するということに対しても、その瞬間がもし来ても、自らの変化に恐れてしまいだろうという思い(未知への恐怖)、「明け渡し」ということがいかに難しいかがわかったように思いました。 

前後の変化は、ご経験された方へお伺いしないとわからないと思い、不躾とは思いましたが、質問させていただきました。 
ご寛恕ください。 

 

最初に言ってしまえば、大切に思っていなかった存在達でさえ、平等に大切に思えるようになる・・・という事です。

人は未知なる変化、変容を恐れるものです。
クンダリーニ覚醒は、身体的に変化が感覚される表層的な覚醒ですので、どうしても恐怖が伴うのでしょうね。
言わば、修行によって勝ち取るタイプのもので、自我のレベルからのアプローチです。

一方、明け渡しによる真我への気づきは身体的変化を伴わないので、身体感覚から来る恐怖はありませんが、自分が無くなってしまうのではないかという「無」の恐怖が襲ってきます。

まあ、どちらにしても恐怖なのでしょうが、その恐怖がマインドの自我に固執する必死の抵抗なのでしょう。

わたしには、わたしの経験による理解しかなく、これが誰か他の人のそれと同じであるかどうかは、全くわかりません。
ですから、この理解が他の人の参考になるかどうかも不明です。

また、これが覚醒だとか、悟りだとか、断言できる比較基準も無く、それだからこのブログの中で「覚醒しました」とか「悟りました」とか、一度も言及していません。
ただ、明らかな変容が起こり、全く価値基準がひっくり返ってしまったのは事実です。

アフターに於いても、ビフォーと同じように自我を持っています。
相変わらずその自我に「わたし」を持っていますが、とても希薄です。。
同時に、内側にも「わたし」を持っているのです。

自我の「わたし」と内側の「わたし」は違うものかと言えばそうでは無く、「わたし」のほとんどが内側に在るという感覚です。
外側も内側も同時に「わたし」が占めていて、しかしながら、外側のそれはとても希薄な感じです。

そのために外側に執着することが、ほとんどありません。
ほとんどと言うのは、例えば卵焼きを作るならバターベースもいいけれど、お砂糖とお醤油味の方がいいね・・・ぐらいの執着です。

こんなに貧乏なのに、お金が欲しいなんて思えないけれど、健康保険料払えるぐらいのお金あってもいいね・・・ぐらいの執着です。

あってもいいし、なくてもいい。必要なら与えられるだろうぐらいにしか考えていません。

家族、友人、ペットや、かき集めていた物や、美しい自然、そのような、かつて愛し好んだ存在に、執着する事がありません。
だったら、もうそれら対象を愛していないのか?といえば、そうではなく、愛し方が全く別次元なのです。

かつての家族は、「わたしのもの」であって、執着の対象でした。
今はそのような「所有」の対象として、考えられなくなっています。

外の世界の何もかもが「わたしのものではない」と明らかに思えるから、執着がありません。
同時に、外の世界の何もかもが「わたしのものだ」と明らかに思えるから、全てを愛しています。

あえてかき集めたり、所有しないでも、いいのです。
そんな事にエネルギーを使ったりしません。

「わたし」が内側に在って内側の立場で見ているから分離して見る見方がしにくいだけでなく、真実の愛を知ってしまったからには、もはや執着に基づく愛は完全に色あせてしまったのです。

家族も他人も、犬や猫、樹木や、そこに這う虫達や、それらに異なった愛を思う事がなく、等しく愛や慈しみを感じるのです。

家族にそんな事言ったら、うちら犬猫と同じかい!って怒られるでしょうね。
そう言うのを、薄情者と言うんだよと非難されるでしょうね。
でもそんな自分に満足しています。

このワンネスの全ては、愛そのものだと感じられるからです。
真実の愛の立場では、それひとつしか無いからです。

だから外側を手放せるのです。
だから内側に委ねきれるのです。

わたしが、わたしでなくなる恐怖、そのような事をかつては考えていました。
わかってしまうと、わたしが無くなるのではなく、わたしが有るのでもありません。
「わたし」が有りながら、「わたし」が無いのです。
この感覚は言語化できません。

「わたし」でいる事もできれば、「わたし」を消す事もできます。
なぜそうできるのかと言えば。
全部「わたし」だからです。

この事が、わかるでしょうか?

わからなくても、これ以上言語化できません。
これで理解してください。

「この中」にいると言う状態は、なんとも安らいだ感覚です。
委ね切っているという安心感と、「これ」とひとつだという満ち足りた感覚と、かといって「わたし」では無いとも思う事がなく。

神の中にわたしが在って、わたしの中に神が在る、あらゆるものは「これ」であって、隅々まで「これ」です。

これらを言葉で表現しようと思えばできるかも知れませんが、そうしようと言う意欲が湧いてきません。
ただ味わい、ただ楽しみ、ただ、在るだけです。

家族、友人、地域、地球、宇宙、法則、全てを愛しています。
マクロからミクロまで、同じ愛です。

神から頂きました。
そして、それは元々わたしに在りました。

なにも離れていません。

全部わたしです。

そして、わたしはありません。

ただ、在るだけです。

この完璧、パーフェクトは実に不思議ですけど、ほんとうはミラクルというのは、奇跡というのは、みなさんが見ている現実世界の事です。
この完璧なる「ひとつ」から、夢のような現実が立ち現われている。
これこそ、奇跡なのです。

その夢である現実に深刻になる必要もありませんが、深刻に楽しむ事も、また、素晴らしいのです。

 

2012-10-05

 

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