わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】罰当たり?(その2)

罰当たり・・・たぶん、もったいない行為に対しての戒めという意味で使われる言葉なのでしょう。

食べ物を粗末にする。
自然の恵みを無駄にする。
そのような事に対して、我々は、なにかこう、後ろめたさのようなものを感じるのです。

それはきっと、「本当は、わかっている」という事を証明しているのです。
奥底で、本当は、わかっているにも関わらず、気づかない。
あるいは、気づかないふりをして、食べ物を捨てている。

命あるものの、その命を頂きながら、その命に感謝する事を忘れている(ふりをしている)。
食事の前に、それら命に対して感謝して「いただきます」と言う人は、どれだけいるでしょうか。

自らの命を、我々のために供養してくれた尊い命に対して、どうして感謝できないのでしょうか。

この星の子供たちが、5秒に1人の割合で、飢えて死んでいきます。
そういう悲しい事実があるのです。

捨てるほど食べ物に埋もれていながら、そのような事を思う事をしません。

でも、奥底では、手をさしのべたい、救ってやりたい、そのように思っているはずです。
我々の本性が、そう叫んでいるのです。
そのような愛と慈悲に満ち満ちているのです。

しかし、自我の「わたし」は、思考・想念で築き上げた自己保存の壁に囲まれた牢獄の中で、敵と戦う事に毎日明け暮れています。
自分だけは助かりたい、いい思いをしたい、手に入れたい、所有したい、手放したくない、自慢したい、褒められたい、認められたい・・・だから努力する。

人を蹴落としても出世したい、願望を達成したい、権力を握りたい、人々を上から見下ろしたい。

だから毎日、努力という戦いをしているのです。
まあ、たぶん、そこそこ達成するかも知れません。

でも、ほんのひと時です。
いずれ、他の者が、それに取って変わります。

達成したかに見えて、それは報われてはいないのです。
それらを手放せない人にとって、心の平安は遠い彼方にあるでしょう。

人を自我に縛り付ける執着というものは、まるで、自らして罰を与えているように、報われる事の無い努力に駆り立てます。

殺伐とした心。
思い遣りを思い出せない心。

神の愛を、自らして閉ざしているのです。

本当は、人間って、
もっともっと、やさしい存在なのです。

本当は、愛と慈悲の存在なのです。

その事を、思い起こしてください。

それが、だれの内にも、脈々として活動しています。

必要な分だけあればいい。
それ以外は、必要としている人たちが取ればいい。
悲しい子供たちが満たされてくれたらいい。
人々の間で、地域の間で、国レベルで、この星全体が、そう思えるなら、
なんとこの星は、光に満ち溢れる星になる事でしょう。

浄土というのは、そのようなものなのでしょう。
そしてそれは、誰の内にも、在るのです。
真の浄土は、人の中に内在されているのです。

そして、本当は、誰もがその事を。
わかっているのです。

その光を閉ざす黒煙が、自我に縛り付ける執着、刷り込まれた価値観、それから湧き起る思考・想念。
それらを手放せない・・・これが自ら課している「罰当たり」です。

解放してください。
そんなものに価値はありません。
そんなもので、傷つけ合うのは、もう止めましょう。

本当は、起こる事全ては、浄土そのものなのです。
自我への執着によって、歪められて見ているだけです。

心を解放して、溢れ出る愛と慈悲の光を世界に放射してください。

本当は、わかっていたんだと、気づくでしょう。
元々、悟っていたんだと知るでしょう。

誰もが神の組成であり、要素であり、そのものであったと、覚醒するでしょう。

ニルヴァーナは、どこか未知の世界にあるのではなく、ここにあるのです。


次回、この続きです。

 

 2012-10-13

 

 

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